きたのか知ら?」と、周子は、自分が先に云ひ出したのにも係はらずそんな風に呟いた。そして私の胸には全く響かなかつた冷い笑ひを浮べた。
「さうかしら……」
私は、軽く点頭くことで彼女のそんな気色を綺麗に拭はうとした。まつたく良子のことを口にした周子の素振りが、私に軽い悪感を抱かせた程素ツ気なく見えた。周子が他人に対してはそんな気振りを示さないのを常々私は快く思つてゐた。――だから私は、避けて、事更に伸びやかな調子で、
「あゝ、今日は俺も変に疲れた。」
さう云ひながら、昼間の務めを終へて来た務め人のやうに落着いて、首筋のあたりを撫でてゐた。
この日に私は、止むを得ない用事で厭々ながら、汽車で一時間あまりかゝる市《まち》の或る役場まで行つて来たのである。――私は、まだ庭の方に眼を注ぎながら、何かそれに就いて相手にはつきり聞きとれぬ程の声でブツブツと呟いでゐるのを、暫らく黙つて聞いて(?)ゐた周子は、煩ささうに、
「そんな処に、あんな造作もない用達で行く位ひのことが、何がそんなに面倒なのさ。」と云つた。
「そんなことを思つてゐるんぢやないよ。」と、私も何か煩さゝうに云つた。
「様子は解つたの、まごつきはしなかつたの、初めてゞ?」
「初めてぢやない、二度目なんだよ。」と、私は、それだけは、はつきり云つて、直ぐに愚図/\と口のうちで――「でも、初めても同じやうなものだし、まつたく何ンにも厄介なこともないんだが、いつでも俺はあゝいふ処へ行くと、まるツきり悸々してしまつて、だから俺は銀行や郵便局見たいなところへだつて滅多に入つたことはないんだが――これは、つまり極く平凡なおとなしい人民の……あゝいふ空気を畏れるといふ習慣は祖父からの教育――悪い習慣ではないと思ふんだが、不便なことが……」などと、愚にもつかないことを呟いでゐた。祖父は、町の衛生検査員が来ても心からの畏敬を示す人だつた。頼んで居て貰つた警官が、
「官服を脱いだ時には、そんなにされては困りますよ、加けに私は若いんですからなア。」と云つて、夕涼みに来る時などは頭を掻いても、子供の私が足を投げ出してゐてさへ厳しく坐り直させた。
「口が利けたの?」
それには答へないで私は、上眼を使ひながら云つた。「……ところが変なんだ。名前がだね、SぢやなくつてH・タキノなんだらう、向方ではつまりHとして俺を取扱つてゐるんだらう!」
「
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