今眼前に思ひ描いた彼の姿、彼の罵声は、発病後の彼に相違ない。さうだ、追憶のつもりが何時の間にか私は妄想に走つてしまつたに相違ない。
「子供の時分傍で暮したので、やつぱり何処か似てゐるところがある。」
 私のことを叔父に批べて母は、往々さう云つて笑つた。病人といふのではない、私の平常の怠惰と臆病さを云ふのである。その叔父は、おとなしさは私どころではなかつた、小心さにも爽々しさがあつた、そして他人《ひと》との応対などが円満だつた。たゞ時々、酷く気がふさいで、さうなると誰にも顔を見せず夜昼なく寝室にもぐつてゐた。
 私は、何といふわけもなくうつかり叔父の狂態などを思ひ出した自分をセヽラ笑つて、勢ひ好く寝床から飛び起きた。そして、椽側に干してある蒲団を見ると、またそこに転がつてしまつた。
「気持が悪いの? 昨夜はまた飲み過ぎたらしいわね。」と周子が云つた。私は、彼女が口のにほひを験してやらうか? とでも催促してゐるやうな気がして好意を感じながら首を振つて、其処で嗽ひをした。
 ――病気ではなく、静かに叔父が引き籠つてゐる間はその部屋を訪れる者は、私より他になかつた。私が遠慮なく襖をあけると彼は、他の者でなくつて好かつたといふ風に悸々《おどおど》した眼をあげて、
「早く入つてしめろよ。」といふのが例だつた。
 こゝでも私達はよく口臭に就いて争つた。
「他人《ひと》のことばかり云ふねえ、ぢやお前のはどうよ。」と彼は、低く笑つて、だが、決して相手に悪寒を抱かせない調子で云ふのであつた。
 私は、母の厳密な検査をうけてゐるので自信があつた。――それが若し、彼がこゝで他の者のやうに生真面目に私を享け容れたならば、あれだけで済んでしまつたのだが、私がハアツと試みると彼は、
「ウツ、臭い/\。」と仰山に顔を顰めるのであつた。それが嘘であることを私は思つてゐるので、そして彼の態度に妙に可笑しく私を引きつけるものがあつて、私は、非常に面白がつて、ゲラ/\と腹を抱へて笑ひながら厭がる彼の顔に噛りついて、ハアハアと吹きかけるのであつた。彼は、救けて呉れ/\、あれを嗅がされては死んで了ふ! などゝ云ひがらもぐり込むのであつた。――他の者との場合で、そんな経験がないので反対に私は、何か異様な武器を持つたお伽噺の悪魔になつた思ひで、愉快に彼を追ひ廻すのであつた。――私達は、顔を合せさへすれば必ずそんな
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