ゐた。
「井戸清ばかりだつてさ、あんな騒ぎをして、あんな大がゝりなことをするのは!」
母は、吾々と古いなじみの井戸清を冷笑して、爽々しさうに向ふを眺めてゐた。井戸屋と云へば私達は、彼等父子より他に知らなかつた。祖父は、井戸を掘ることが好きだつた。私が知つてゐるだけでも、小さな屋敷のうちに三つの新しい井戸を掘つた。そして、毎年夏になると賑やかにそれらの井戸換へを行つた。父は、普請好きで貸家などを五六ヶ所に建てた、だから矢張りいくつかの井戸を掘つた。(大震大火で家は凡て灰になり、井戸は悉く埋まつた――祖父達の遺業は何一つ残つてゐない。)――私は、遠い場所の時でも普請場へ出かけて井戸掘りの光景を見るのが好きだつた。子供の私は、吾家で井戸掘り作業が始まつてゐる間は慌てゝ学校から帰るのが常だつた。その頃の私の親しい友達は三人あつたが、皆な私と同じように井戸掘り見物が好きだつた。家の一町も前に来ると、木々の間から高い足場の立つてゐるのが見えた。二人宛向き合つて、それが三組か四組になつて(頂上には一人が鳥のやうにとまつてゐた。)順々に高く夫々の足場に陣取り、夫々真ン中を突き抜いてゐる一本の長い棒を握つて、一番上にゐる首領が声高らかに音頭を取ると一勢に他の者が非常に余韻の長い掛声で歌ふのである、そして徐ろに棒をあげ、歌の切れ目で静かに突き降ろすのであつた。
「みんな口に抜けてしまつて、あれぢやほんとの力が入らないのも道理さ。」
母は、さう云つて、彼等が如何に仕事を勿体振り、縁儀を担ぎ、どんなに家中の者の手までを病はしたか! などと云ふことを可笑しさを含めて話した。
「さうだらう、あれぢや口に抜けてしまふのも無理はなからう。」と、私も同意した。井戸清は、私達が見物してゐると何か私達に話しかけるやうな文句を、その儘節をつけて抑揚の永い掛声にした。わざと生真面目な顔をして、どうしても子供の私達が笑はずには居られない言葉を次々に歌つた。――私が東京の学校に入つた初めの夏、やはり彼等が裏で仕事をしてゐた。私より五ツ六ツ年上の清の倅は、いつもの通り父親と向ひ合つて交互に朗らかな音頭をとつてゐた。私は、往来で二三度見かけた町の雛妓に初恋を感じて終日鬱々として部屋に引き籠つてゐた。そして、この頃の憂鬱症と殆ど変らない状態で、同じやうな妄想に病まされてゐた。私の窓から、彼等の仕事が見へた。私は、
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