妹の良子が四五日前東京から遊びに来てゐるので、私の弟などと一処に毎日海へ通つてゐた。海は、もうすつかりおだやかになつてゐたが、いざさうなると私は彼女達と共々に出かけるのが何だか厭で、誘はれゝば返つて何か口実をつくつて出かけなかつた。そして、この間うち海の静まるのを希つてゐた頃と同じやうに碌々として、変に口煩くばかりなつてゐた。
良子が来てから、私は、周子と二人ぎりになる時間がないので口臭の不安をたゞす機会を失つてゐた。斯うなると何よりもこれが気にかゝつてならなかつた。そればかりが気になつて、良子となどは殆ど言葉を交したこともなかつた。他人の前に出ると、酷い頓珍漢になつてしまひさうな怖ればかりを抱いた。で、自分にとつて近頃の周子が一層有りがたい、掛け換へのない人物になつてゐる――そんな妄想に走つた。……慣れた剃刀を紛失した時と同じやうな不便さ、借着をして他人中へ出て行く時のやうな不安心さ、秘密を胸に蔵して告白しない苦しさ……そんな途方もない形容詞を弄んで一層気分をくすぶらせてゐた。――私は、おそらく幼年時分からの習慣通りに、週期的に襲はれるモノマニアが嵩じて、いつもの神経衰弱にかゝつてゐたに相違ない、眼に映る様々な物象が己れの悪い心境にのみ関聯して、悉くが否定と「あやふや」と、懶惰と、白つぽい怖ろしさとの奈落に沈んで行くのが常だつた。また、日常の瑣細な様々な不安心などは、一瞬間のハズミに目醒しい突風に煽《あふ》られて五体諸共奈辺にか飛び去り、吻ツと白々しい峯の頂きに休んだ、かと思ふと忽ち断崖から脚を滑らせる思ひにゾツとして慌てゝ我に返ると、始めから悸々と凹めた手の平に息ばかり吹きかけてゐた自分に気附くのであつた。一息毎に刻々と気が滅入り込むのを、手をくだす術もなく見殺してゐる心で私は、ハアハアと手の平に息を吹きかけてゐた。
「今日こそは朝起きをしようと思つてゐたのに、また失敗してしまつた。」
私は、乱雑に首を振つて舌を鳴らしながら立ちあがると、剃刀を取り出し、ヒタヒタと強い鞭の音を立てゝ革砥を合せた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「この頃の井戸の掘り方は、前のとは何だか大分様子が違ふやうですね。」と私は母に訊ねた。私の記憶では、十年ばかり前に一度以前の家の方で見て以来だつた。――私は、声一つ立てずに庭の隅でコツコツと働いてゐる二人の職人の様子を見て
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