になつてゐた。終ると私が先に、
「今日は、どう?」と、臆病な態度で訊ねるのであつた。すると彼女は、疎かな様子を見せぬために一寸と首を傾けて、注意深く、
「今日は、未だ少しお酒のにほひが残つてゐる。」と正直気に答へて、自ら点頭くことがあつた。
「今日は何でもない、綺麗!」
斯うきつぱり云ひ放つて、私と共に晴れやかな顔になることもあつた。
「ウツ! 今日は、とても堪らない、ウーツ、酷い、酷い! 鼻が曲りさうだ。」と叫んで彼女は、己れの鼻や口のあたりの空気を勢急に払ひのけることがあつた。
一ト月ばかり前から頻繁に斯んなことを始めてゐたが、彼女が細い観察を披瀝すればする程私は、好気嫌に意を強くする態度を示すので、この頃では彼女はすつかり手心を覚えて、時には、私に二度も同じことを繰返させては、これには夥しく自信のない私の心に好き得心を与へることに努めた。
同じやうに頭の重い鬱陶しい日ばかりが私に続いてゐた。
私は顔を洗ひに行くのも面倒で、いつもの通り午近くに寝床を離れると、椽側に出て猫のやうに凝ツとしてゐた……夏の真昼だといふのに、妙にあたりが明るいばかりでさつぱり暑くないな! そんなことを私は呟くと、口笛を吹きながらさつさと歩き出した……。
祖父と父が無表情で、睦まじさうに並んで井戸掘りの仕事を眺めてゐた。この屋敷続きの畑を潰して、貸家を建てたい! と父は思つてゐた。祖父は、父のさういふ考へを卑んでゐた。私が見あげると、井戸掘りの櫓が石油坑の櫓のやうに高く空にそびえてゐた。これなら大丈夫だ! と、私は思つた時眼が醒めた。私は、醒めたり眠つたりする惰眠ですつかり疲労して、やつと床を離れた。――夢だつたのか! と思ひながら私は、夢のやうに椽側に出て猫のやうに凝ツとしてゐた。
「向うの家の時分には、随分幾度も井戸を掘つたやうな気がするが!」と、私は其処で井戸掘りの光景を眺めてゐた母に話しかけた。
「お爺さんは井戸好きだつたから。」
母は、椽側に腰かけて見物してゐた。女主人らしい母の様子が寂しく私に感ぜられた。祖父と父が職人を雇ふことが好きで私の古い記憶にはさういふのどけさが多かつたが、職人の仕事を見る者はやつぱり祖父と父でなくては私の感じに慣れなかつた。
私は、だるく重い胃袋のために動くことをはばまれた気持で、口臭を気にしながら母の傍に並んでゐた。――周子は、その従
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