やうな真似をしなかつた。私の幼児の頃の母と同じやうに、たゞ母のやうに積極的ではなかつたが彼女は、私に忠実だつた。私は、いつもその時には彼女に妙な感謝を持つた。だが、私としても、今では、冗談でなくては母の前でそんなことを云へる筈はなかつた。たとへ母が鼻をつまゝないで、私の方を向いたにしろ私はおそらくテレて突然別の話に移してしまつたに相違ないのだ。
 今では、何と云つても周子が自分にとつては一番身近くの者であるのか?――私は、そんなことを呟いで、一寸との間怪し気な感傷に耽つたりすることなどあつた。
「他人《ひと》には話も出来ない、随分馬鹿気たことなんだが――」と、私はこの時だけは変に遠慮深く、稀には顔まで赧らめて彼女に云ふのであつた。――「子供の時分のそんな遊びがすつかり身に沁みてしまつてね、どうしても時々これを験さないと、気持が落着かないんだよ。」
「でも、急に可笑しいわね、この頃になつて突然……今までは?」
「子供の自分には……」
「子供の自分ぢやないわよ。」
「いくら女房だと云つても、そんなことを頼むのは悪いやうな気がして――」
「ほう……」
「いや、冗談ぢやないんだ。だから今までは独りで斯うして……」と私は、例の如く凹めた手の平に息を吐きかけて見せた。
「おゝ、厭だ。子供なら兎に角――」と云つて彼の女は眉をひそめた。
「だからお前に頼むんだよ。」
「ぢや、あたしと一処にならなかつた前はどうだつたの?」
 そんなことから彼女は、変に疑ひ深い眼をあげて不平さうに私を睨めたりした。斯んな話をして居る間だけは飽く迄も私は、従順な依頼者の立場を失はなかつた。そして、彼女も快く承知した。
 私の一つの呼吸は可成り長く保つことが出来た。私は肺量が強かつた。私は、中学の時分にラツパ吹きの選手であつた。――私が胸一杯に空気を吸ひ込んで、そして徐ろにそれを吐き終へるまでには大概彼女は途中で一つ別の息を衝かずには居られなかつた。時にはこれが我慢の競争のかたちになるやうなこともあつたが、私が負けたことは嘗てなかつた。彼女は、いつも試験を始める前に用意のために長く一つの息を吐き出して、それが止絶れる瞬間にウツと微かに合図するのであつた。彼女は、口を結んで胸を拡げ、嗅覚だけに生きた――私は、洞ろに口をあけて、凍えた手を暖める時のやうに沈重な息を吐いた。
 彼女は、私の唯ひとりの公平な試験員
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