二回位ひの割合で私は、この検査に落第した。不合格の時は、何となく私は他人の前に出るのを恥らふやうな臆病心を養成されて、治るまでは食物を気をつけもし、自ら進んで熱心な嗽ひをすることも煩としなかつた。――私が、八才の時に死んだ祖父は、毎晩のやうに私をとらへて、お爺さんと一処に寝よう? とすゝめた。
「お爺さんの口は、お酒臭いから厭だ。」
私は、顔を顰めて何時もさう云つては祖父の手を脱れた。酒臭い、臭くないにかゝはらず私は、大人の口は何だか薄気味悪くてならなかつた。祖父も祖母も母も、私が云ひ出せば厭といふことなく諾々として私の息を検査して呉れたが、私はそれに何か子供の特権とでもいふやうな手前勝手な当然さを感じてゐた。
私が逃げ出すと祖父は、面白がつて、蛇のやうに大きな口をカツと開けた、眼をむき出し鼻筋に彼をつくつて、ゴーゴーと喉を鳴らした、そして、どすぐろい口腔から火のやうに凄じい酒気をハアハアと吐き出しながら私に迫つた。私は、まつたく神経的な悸えを感じて夢中で逃げ出した。或る時祖父は、母に向つて、私のことを、
「彼奴は、ほんとうに俺を嫌つてゐるのぢやないかしら?」と、寂し気に訴へたことがあると云ふ話を、青年になつてから私は何かの序でに母から聞いたことがあつた。
「ぢや、俺は斯うしてしつかりと口を圧えてゐるから、お前、俺にやつて見な。」
終ひに祖父は、屹度斯う云つて二つの手の平で口を圧えて、私の近づくのを待つた。私は、静かに近寄つて、祖父の鼻柱をめがけて思ひきり強く、ハアツ! と息を吹きかけるのであつた。すると祖父は、重々しく、研究的に首をかしげて、
「うむ、うむ――ちつとも臭くはない。」と点頭いた。疑念を抱いたりすると私が直ぐに気嫌を悪くするからであつた。疑念は、母にのみ許してゐたのだ。祖父のこの甘い検査に合格すると私は、大手を振つて順次に祖母や母の前で同じ真似をした。祖母も容易く点頭いた。母は、このやうにこれが[#「これが」に傍点]稍遊戯的になつてゐる場合でも決して容易くは点頭かなかつた。だから私は、母は一番後回しにするのが常だつた。――兎も角、皆な私にとつて忠実な検査員達であつた。
母が鼻をつまんだ様子を見て私は、ふとそんな思ひ出に走つた。――現在でも、殊に最近私は、時々口臭の不安を感ずると、そつと周子に頼んで験して貰ふことがあつた。彼女は、決して鼻をつまむ
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