ればならなかつた。
「何うなすつたの、独りで、お酔ひになつたの?」
 ヘレンが私の肩に凭りかゝつて訊ねるのであつた。彼女は、この酒場を訪れる多くのアグリタス達の「ジヤステイナ」である美しい酒注娘である。
「俺は、絶望の盃をもう一杯重ねる。そして、お前は、あのオルガンの前に坐つて、マルシアス河の悲歌を弾いて呉れ。」
「死んではいけないよ。――向方の隅にゐるお客様が、さつきからあなたの様子を見て、あれは何処の役者なのか、余程六つかしい役でも配《ふ》られたと見えて、可愛想に、酒場に来てまでも稽古に夢中になつてゐる。何を、何時、何処で演《や》るのか訊いて来て呉れ――ですつてさ。……それはさうと妾は擽つたくつて仕方がない、あのグロキシニアの花鉢の蔭からモノクルをつけて凝つと此方を視詰めてゐる生真面目さうなヴアンダイキの※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]紳士が居るでせう、あの大学教授つたらお酒は一杯も飲めないのに毎晩妾のために此処に来て、何とかして私の隙を見はからつては、妾の首筋から幾粒かの南京豆を妾の背中の中へ落し込んで、それが悉く妾の裾から床に滾れ落ちるのを見とゞ
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