彼が道々にポケットよりとり落したる名刺を拾うた者の言に依りますと、彼は八通りの偽名を有し、その中にはファウスタスなる文字も見うけられたさうでございますから、勿論お訊ねの不埒なる科学者と存ぜられます。そのおつもりにて追跡なさるゝやう至急お取り計ひなさるゝが適当と存ぜられます。)
(僕は当時彼と友達であつた。)
 これはアンスバッハ市に当時在住した物理学者マリンスの、彼に関する述懐録の一部分である。
(彼はクンドリング生れで、クリコウの大学に在る頃より魔術に通じ、漂泊的学者となつた。彼は、何時も名状すべからざる憂鬱な相貌で、様々な不思議に就いて高言するのが癖であつたが、数年前ベニスに現れた時に、空中飛行の実験を示すと吹聴して、或る烈風の凄まじい日に高塔の頂きから空中に舞ひあがり――その時彼の五体は突風に巻き込まれて空高く飛び、大胆にも悠々と落着き払つて三態の悪魔の姿体を示したので地上より遥かに見あげる者の眼には、正しく奇蹟の験証なりと見られたが、忽ち運河の中に墜落して人事不省に陥つた。その後数年経て、ウンテンベルグの旅館に、更に驚くべき憂鬱な相貌で立現れたので、主人がその故を問ふと彼は、た
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