「日本は赤いからすぐ解る」
 祖父は両方の人差指で北米の一点と日本の一点とをおさえて、
「どうしても俺には、ほんとうだと思われない」と言った。
 祖父が地球儀を買ってきてから毎晩のようにこんな団欒《だんらん》が醸《かも》された。地球が円《まる》いということ、米国が日本の反対の側にあること、長男が海を越えた地球上の一点に呼吸していること――それらの意識を幾分でも具体的にするために、それを祖父は買ってきたのだった。
「どこまでも穴を掘って行ったらしまいにはアメリカへ突き抜けてしまうわけだね」
 こんなことを言って祖父は、皆なを笑わせたり自分もさびしげに笑ったりした。
「純一は少しは英語を覚えたかね」
「覚えたよ」と彼は自慢した。
「大学校を出たらお前もアメリカへ行くのかね」
「行くさ」
「もしお父さんが帰ってきてしまったら?」
「それでも行くよ」
 そんな気はしなかったが、間が悪かったので彼はそう言った。彼はこの年の春から尋常一年生になるはずだった。
「いよいよ小田原にも電話が引けることになった」
 ある晩祖父はこんなことを言って一同を驚かせた。「そうすれば東京の義郎とも話ができるんだ」
「アメリカとは?」彼は聞いた。
「海があってはだめだろうね」
 祖父はまじめな顔で彼の母を顧《かえり》みた。
 彼は誰もいない処でよく地球儀を弄《もてあそ》んだ。グルグルとできるだけ早く回転さすのがおもしろかった。そして夢中になって、
「早く廻れ早く廻れ、スピンスピンスピン」などと口走ったりした。するといつの間にか彼の心持は「早く帰れ早く帰れ」という風になってくるのだった』
 そこまで書いて私は退屈になって止めたのだった。いつか心持に余裕のできた時にお伽噺《とぎばなし》にでも書きなおそうなどと思っているが、それも今まで忘れていたのだった。球だけ取り脱《はず》して、よく江川の玉乗りの真似などして、
「そんなことをすると罰《ばち》が当るぞ」などと祖父から叱られたりしたことを思いだした。
「古い地球儀ですね」
「引越しの時から邪魔だった」
 それからまた父の事がうっかり話題になってしまった。
「私はもうお父さんのことはあきらめたよ。家は私ひとりでやって行くよ」と母は堅く決心したらしくきっぱりと言った。私はたあい[#「たあい」に傍点]もなく胸がいっぱいになった。そうして口惜しさのあまり、

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