でしょう」
「皆な来ると言って寄こした」
また父の事が口に出そうになった。
「躑躅《つつじ》がよく咲いてる」と私は言った。
「お前でも花などに気がつくことがあるの」
「そりゃ、ありますとも」と私は笑った。母も笑った。
「ただでさえ狭いのにこれ[#「これ」に傍点]邪魔でしようがない。まさか棄てるわけにもゆかず」
母は押入の隅に嵩張《かさば》っている三尺ほども高さのある地球儀の箱を指差した。――私は、ちょっと胸を突かれた思いがして、かろうじて苦笑いを堪《こら》えた。そうして、
「邪魔らしいですね」と慌《あわ》てて言った。なぜなら私はこの間その地球儀を思いだして一つの短篇を書きかけたからだった。
それはこんな風にきわめて感傷的に書きだした。――『祖父は泉水の隅の灯籠《とうろう》に灯を入れてくるとふたたび自分独りの黒く塗った膳の前に胡坐《あぐら》をかいて独酌《どくしゃく》を続けた。同じ部屋の丸い窓の下で、虫の穴がところどころにあいている机に向って彼は母からナショナル読本を習っていた。
「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」と。母は静かに朗読した。竹筒の置ランプが母の横顔を赤く照らした。
「スピンアトップ・スピンアトップ・スピンスピンスピン――回れよ独楽《こま》よ、回れよ回れ」と彼の母は続けた。
「勉強がすんだらこっちへ来ないか、だいぶ暗くなった」と祖父が言った。母はランプを祖父の膳の傍に運んだ。彼は縁側へ出て汽車を走らせていた。
「純一や、御部屋へ行って地球玉を持ってきてくれないか」と祖父が言った。彼は両手で捧げて持ってきた。祖父は膳を片づけさせて地球儀を膝の前に据えた。祖母も母も呼ばれてそれを囲んだ。彼は母の背中に凭《よ》りかかって肩越しに球を覗《のぞ》いた。
「どうしても俺にはこの世が丸いなどとは思われないが……不思議だなア!」祖父はいつものとおりそんなことを言いながら二三遍グルグルと撫《な》で回した。「ええと、どこだったかね、もう分らなくなってしまった、おい、ちょっと探してくれ」
こう言われると、母は得意げな手つきで軽く球を回してすぐに指でおさえた。
「フェーヤー? フェーヤー……チョッ! 幾度聞いてもだめだ、すぐに忘れる」
「ヘーヤーヘブン」と母はたちどころに言った。
それは彼の父(祖父の長男)が行っている処の名前だった。彼は写真以外の父の顔を知らなかった。
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