―と。」
と詩人が僕にささやいた。あんな薄ぎたない居酒屋を、おそらくキイツの詩か何かで形容したことなんだろうが、マーメイド・タバンだなどと称《よ》び慣れて、現《うつつ》を抜かしていた詩人のお目出たさにはあきれたものだ――と僕は苦笑を湛《たた》えながら、
「桂冠《けいかん》詩人よ。」
と煽《おだ》ててやった。「都に行くとお前は宝石店の飾り窓に七宝《しっぽう》の翅《はね》をもった黄金の玉虫を見出すであろう。マーメイドの恋人の愛をつなぎたかったら宝石店の玉虫を送り給え。」
詩人は僕の別れの言葉を上《うわ》の空《そら》に聞き流して、例の、
「これからあれへ、あれからこれへ!」を声高らかに歌いながら意気揚々と月明の丘を降《くだ》って行った。
「不安は事物に対するわれらの臆見がもたらすものであって、本来の事物に不安の伴うものではない。愚人にのみ悲劇が生ずる。俺はオデイセイに従って、森を抜け出た野獣の如くに、専《もっぱ》ら俺自体の力を信じて行こう。」
とBは、万物流転説を遵奉するアテナイの大言家の声色《こわいろ》を唸《うな》りながら未練も残さずに出て行った。不安も悲劇も自信も僕にとっては馬耳東風《
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