らの、どんな憂目を見るであろう旅の空を想うのが痛快であった。
 こんな想いに有頂天になった僕は、ホップ・ステップで山を駆け降り、Aのいわゆるマーメイドの前に来かかると、
「あら、マキノさんだわ。」
と叫んで、あの酒注女《さけつぎおんな》が駆け出して来て僕の行手を塞《ふさ》いだ。そしてやや暫《しばら》く僕の姿を不思議そうに眺めた後に、
「そんな恰好《かっこう》で、あたしの眼をごまかして通り過ぎようとしたって駄目よ。」と甘えながら僕の胸に凭《よ》りかかった。……「よう、どうしたのよ、いつものように折角お迎えに出たあたしを、抱きあげて早く店の内へ連れてって頂戴《ちょうだい》よ。」
「あんな詩人の真似《まね》は出来ない、僕には――」
「とぼけるない!」
「決して――。僕は今夜、七郎丸に頼んだ夜釣りに連れて行ってもらうつもりで、他に適当な着物が見つからないので、それでこんな装いをして来たんだよ。」
「じゃ、これから七郎丸の家へ行くつもりなの?」
「漁があってもなくっても帰りにはきっと寄る、手柄話をお待ちよ。」
 僕は、胸を張って得意そうに剣を振った。すると女は、いきなり僕の胸を力一杯の拳固《げんこ》で突き飛《とば》した。
「嘘吐《うそつ》き! こんな月夜の晩に夜釣りがあって堪るものか。」
「おお、そうか!」
と僕は、たじろいだ。「夜釣りは闇夜《やみよ》に限ったのだったかな?」
「決っているじゃないかね。」
 その時酒場の窓から赤く満悦げな顔が現れた。見ると七郎丸だ。「さっきから君が来るのを待っていたんだ。そんな処で、お月様なんかに見せつけていないで入らないかね。」
「七郎丸、君がいるんなら僕は無論入るよ。」
 僕は何だか不機嫌になって、つかつかと酒場の中へ入った。
「七郎丸、もうこんな嘘吐きとは友達はおやめよ。そして、これからは、あたしと仲好くしようじゃないか。」
 僕に続いて靴音高く駆け込んで来た娘は、いきなり僕たちの間を割って七郎丸の首玉にぶらさがった。
 七郎丸というのは彼の家に伝わる漁家としての家名とそして持舟の名称であるはずなのだが、今では持舟はなくなって家名だけが残っている僕の友達である。――秋になって夜釣りがはじまったら今年こそ是非とも連れて行って欲しい……ということを僕は常々彼に話していたのである。
「折角|支度《したく》をして来たのに気の毒だったね。」
 彼は娘をそっと傍《かたわ》らに退けて僕に、コップの酒盃をさすのであった。
 僕は、決して道楽でやろうというのではなかったから、釣りの話になるとあくまでも七郎丸の忠実な弟子だった。――今日は、あんな理由で部屋を飛び出したのであるが、常々七郎丸は仕事に行く時にはこれを着けて行くと好いということを主張していたので、僕もさっきこの身装《みなり》のテレ臭さの余り娘にああいってしまったのではあったが、勿論《もちろん》、今直ぐ舟を出すからと聞けばこのまま出発するに違いないのである。
「僕はたった今君を探すために君の部屋に行ったところが……」
 七郎丸は何か息苦しそうに喉《のど》を詰らせて熱い手で僕の手を握った。「ああ、君に遇《あ》ってしまったらどう話をはじめて好いやら解らなくなってしまった。」
 ふと見ると彼の真ん丸に視張《みは》って僕の顔を眼《ま》ばたきもしないで見詰めている眼眥《めじり》から、忽《たちま》ちコロコロと球のような涙が滾《まろ》び出て、と突然彼はワッと声を挙げて僕を抱き締めた。僕は鍾馗《しょうき》につかまった小鬼のように吃驚《びっく》りした。七郎丸はそのままオイオイと声を挙げて泣くのであった。
「七郎丸!」
と僕も、理由も知らずに胸が一杯になって叫んだ。「誰がお前のような善良な人間をそんなに悲しませたんだ。事情は一切聞かないで好い。悪人の名前だけをいえ。」
「違う違う。」
 彼は、涙をのんで辛うじていい放った。「七郎丸の旗誌《はたじるし》を再び舟に立てることが出来る幸運に俺は廻《めぐ》り合ったんだ。」
 ――魚場の納屋《なや》の屋根に魚見櫓《うおみやぐら》というものがある。舟を持たない七郎丸は久しい前からこの展望台で観測係を務めていた。稀《まれ》には舟を借りて沖へ出かけることもあったが、舟主との間が面白くないので、彼は大方この展望台に籠《こも》って、天候の次第に依って幾通りかの旗をかかげたり、魚群の到来を村人に知らすサイレンのスウィッチを握ったりして、遣瀬《やるせ》なく腕を扼《やく》していた。僕のCは、実際には「落下の法則」を実験していたわけではなく、この観測室に来ると七郎丸の仕事の手伝いをしていたのであるが、例えば望遠鏡で見張りしている彼が、
「来たぞ、合図だ!」
と叫ぶと、僕はサイレンのスウィッチを下す、村人が涌《わ》き立つ、海上には忽ち目醒《めざま》しい活劇が
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