吊籠と月光と
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)いつの頃《ころ》からか
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)心地|好《よ》く
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あの[#「あの」に傍点]
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僕は、哲学と芸術の分岐点に衝突して自由を欠いた頭を持てあました。息苦しく悩ましく、砂漠に道を失ったまま、ただぼんやりと空を眺めているより他に始末のない姿を保ち続けていた。
いつの頃《ころ》からか僕は、自己を三個の個性に分けて、それらの人物を架空世界で活動させる術《すべ》を覚えて、幾分の息抜きを持った。で、なく、あの迷妄を一途《いちず》に持ち続けていたらあの[#「あの」に傍点]遣場《やりば》のない情熱のために、この身は風船のように破裂したに相違あるまい。
僕の三個の個性というのはこうだ。
Aは、
「諸々《もろもろ》の力が上昇し、下降して、黄金の吊籠《つるべ》を渡し合う。」
いわば、その流れの呑気《のんき》な芸術家である。だからAは、その言葉をわれわれに残したあの中世紀の大放蕩《だいほうとう》詩人の作物を愛誦《あいしょう》して、いとしみからと思えば憎しみで、憎しみからと思えばいとしみで、あれからこれへ、これからあれへ、転《ころ》がそう転がそう、この樽《たる》を、セント・ジオジゲイネスの樽のように――とか、兵士の歌だよ、今日は白パン、明日は黒パン……そんな歌ばかりを口吟《くちずさ》みながら、昆虫採集で野原を駆《か》けまわったり、「マーメイド・タバン」の一隅で詩作に耽《ふけ》ったり、手製の望遠鏡で星を眺めたり、浮気な恋に憂身《うきみ》を窶《やつ》したりしているのであった。
Bは、
「その父・母・妻・子・兄弟、そして汝《なんじ》自身の命をも憎まざる者はわが弟子たる能《あた》わず。」
――の聖人の忠実な下僕《しもべ》であった。そして彼は、「マルシアス河の悲歌」の作者ユウリビデスを退けたストア学徒の血を享《う》けて、悲劇を嗤《わら》い、ひたすら神と力を遵奉《じゅんぽう》した。論理的技巧を棄《す》てて理性の統一から最も明瞭なる健全な生活を求めなければならなかった。
Cは、ピザの斜塔の頂きに引き籠《こも》って、大小数々の金属製の球を地上に落下して、「落下の法則」を発見したあの[#「あの」に傍点]科学者の弟子である。Cは、いつも悲しそうな顔ばかりしていた。なぜなら彼がいかほど熱心に多くの球を投げ出して、その落下状態を研究したところで、決してあの[#「あの」に傍点]科学者の発見に依《よ》る「落下の法則」以上の定理を見出し得ないばかりでなく、ただ徒《いたず》らに落した球を拾っては再び塔の上に昇り、また落し、注視し、また拾い――を繰り返すに過ぎなかったから。
或《ある》日この三人が、諸国遍歴の旅に出かけようという相談をした。どこへ行ったところでどうせこれ[#「これ」に傍点]以上のことはないというあきらめを持っている憂鬱なCは、厭々《いやいや》であったが、持物といっては金属性の球だけをポケットにして、饒舌《おしゃべり》なAや気難《きむずか》し屋なBと共々打ち連れて、先ず都を指《さ》して旅にのぼった。いうまでもなくこの三人の者は常々不和の仲で、途上で出遇《であ》っても碌々《ろくろく》挨拶《あいさつ》も交《かわ》したことのないほどの間柄なのである。
………………
これだけの緒口《いとぐち》を考えつくと僕は、急に愉快になって寝台から飛び降りた。僕の頭は梅雨期を過ぎて初夏の陽《ひ》が輝いたかのように爽々《すがすが》しくなった。
僕は名状しがたい嬉《うれ》しさに雀躍《こおど》りしながら、壁飾りに掛けてあるアメリカ・インデアンの鳥の羽根のついた冠りを執《と》り、インデアン・ガウンを羽織って(全くそんなことでもしなければ居られなかった、一体僕は馬鹿で、悲喜の現れが露骨で、例えばこの頃でも、おそらく生活には要がないにもかかわらずややともすると幾何や代数の解題を試みるのであるが、極《ご》く稀《まれ》に自力で問題が解ける場合に出遇《であ》うと、狂喜のあまり不思議な音声を発したりするのである。その声があまりに突拍子もなく大きくて、夜中などであると、わが家の熟睡にある同人連は夥《おびただ》しい迷惑を蒙《こうむ》り、翌朝それがために寝坊を余儀なくされ、そして僕は朝飯が待ち切れずに停車場の待合室へ赴《おもむ》いて汽車売の弁当を喰《た》べなければならなくなったりする。……で、今も、思わず歓呼の声を挙げかかったのであったが、咄嗟《とっさ》の間にそれに気づいて、辛《かろ》うじて口を緘《かん》したわけである。が、どうして、幾日も幾日もの鬱屈《うっくつ》の床で、光明に眼醒《めざ》めてじっとしていら
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