捲《ま》き起る。
 そんな時には僕は面白くて思わずメガホンを執って荒武者たちに声援を浴せたりするのであるが、舟ばかりを欲しがっている友達の胸の中を思い返すと直ぐに僕も変になって、事務的に旗の上げ下しを手伝ったり、黙々として気象観察や潮流図の日誌を記したりするのであった。そして、ピザの斜塔の物理学者の助手にでもなったかの通りな冷たさに閉され続けたのである。二人は、魚見櫓の窓から、ただ強そうな顔を現して村の騒ぎを仔細《しさい》に見物するだけだった。
「おお、それは――」
 僕もそれより他は声が出なかった。そして二人は、互いの名前を呼び合って、手に手を執って踊っただけである。
 それから魚見櫓に駆け戻って亢奮《こうふん》状態がやや収ってから、
「で、ね、俺は君の家に駆け込んだのさ、するとドアには錠が下りていて――誰もいない。が、君の窓はすっかり開け放しになっているんで、庭から廻って、覗《のぞ》いて見ると、灯《あか》りは満々と点《つ》けッ放して、君の姿も見えないんだ。まるで大喧嘩《おおげんか》の後のようにあたりは散らかっているじゃないか……」
 などということだけを彼は語るのであった。どうして舟を持つ身になれたか、家名を実質上に取り戻し得ることになれたか――というようなことには触れもしないのである。僕もまた訊《たず》ねる余裕を持たなかった。
「だが、ふと気づいてみるといつも壁に懸けてあるそれ[#「それ」に傍点]が――」
と彼は僕の身装《みなり》を指差した。――「それが見あたらないので、こいつはきっと俺と行き違いになったんだろう、と思ったから慌《あわ》ててマメイドに引っ返して、張番をしていたんだが、その間の切ない気持といったらなかった。君の気配を外に聞くと娘はあんな風に飛び出して行ったんだが、俺は体中が無性に震えあがるばかりで動けなかったんだよ。そして俺は妙に落着いた口調で、君に、折角支度をして来たのに気の毒だったな――なんていったが、実はその恰好《かっこう》の君を見つけると俺は一層|嬉《うれ》しくなって、何にもいえなくなって、言葉を間違えてしまったんだよ。」
「この旗が再び海の上に飜《ひるがえ》ることになったのは何年ぶりなの?」
 いつからともなくそこの壁に掛っている『七郎丸』の旗誌を僕は、感慨深く見あげながら質問した。僕たちは、その旗に関しては七郎丸が大酔をした時に、たった一遍話材にした以外には、不断はいい合せたかのようにそれについては口を緘《かん》して僕も、見て見ぬふりをして来たものである。
「……で俺は、この部屋を舟に見立てて意気を鼓しているんだよ。ちゃんとここに、こう旗をおし立ててあるつもりで……」
 その大酔の時に彼がこんなことをいって、壁にある旗の前に腕組みをして立ちあがったことを僕は憶《おぼ》えている。
「それだけに情熱があれば、間もなくそれはほんとうの海の上に飜ることになるに相違ないよ。」
と、その時僕もいって、彼の傍らに並んだことを僕は忘れていない。
「そうなったら俺たちは『七郎丸』を共有して大奮闘をしような。」
「約束する。」
と僕は点頭《うなず》いた。「やあ、俺はとても面白い、ペガウサスに打ちまたがって雲を衝《つ》いて行くかのような気がする。」
 僕たちは「ひらひらと打ちはためく旗」の傍らに、(酔っていたから、ほんとうに部屋が舟のように思われた。)あたかもギリシャ彫刻にある『大言家の像』のように屹立《きつりつ》して、両手を拡げて海の歌をうたった。
「その時が来るまで俺たちは結婚しまいぜ。」
「勿論だ。俺には、あらゆる女という女は悉《ことごと》く怪物《メジューサ》に見えてならないところだ。俺はパーシウス(女怪退治の勇者)の剣を、ジウスに授かって……」
 だが、この誓言は、その後間もなく互いの和議を持って諒解《りょうかい》した。――二人が学校を出て(七郎丸は水産講習所)間もない頃の、印象の鮮やかな僕の記憶である。何でも、その晩は、二人とも怖ろしく亢奮して、東の空が白む頃おいまで、
「帆を挙げろ!」
「オーライ――」
「旗をたてて……、ランラ、ランランラ!」
 などと声をそろえて狂い廻ったのであったが、その時、二人で、
「朝の掲旗式!」
 で、「七郎丸」の旗を壁に懸けたのが、いまだにそのままそこにあったのだ。
 七郎丸は、それ以来引つづいて、この観測台に務め続けて来たのである。何故《なぜ》か僕たちは、その一度だけで、まるで痛いものを避けるが如くに旗に関する一言ずつの会話も取り交さなかったのである。
 一言弁明して置くが、僕のAは飲酒家であるが、七郎丸との交渉は大方僕のCのみである。僕らが大酔のあまりかかる超現実性を帯びた亢奮状態を露《あら》わしたのは、その凡《およ》そ十年近き以前の一夜だけで、今日まで僕たちの間では平調
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