を脱《はず》れた音声すら一言だって交された験《ため》しもないのである。七郎丸の涙などを見たのは僕にとっては、さっきの居酒屋の騒ぎが空前の奇蹟に違いなかった。
「ねえ、七郎丸、あれはおそらく十年も前のことになるだろうな。今晩は、ひとつ旗に絡《から》まるお前の夢について……」
語らないか――と僕が、静かに目を瞑《つむ》りながら徐《おもむ》ろに首を傾《かし》げると彼は、
「スリップスロップ!」
と唸りながら慌てて洋盃《コップ》を傾けると、立ちあがって壁の旗を取り下しにかかった。
「今急に、何もその旗を取り下さなくっても好さそうなものじゃないか。この祝盃は旗の下で挙げようじゃないかね!」
「君の見ている前で一度下すのだ――それ[#「それ」に傍点]から君、これをどうにでもしてくれ……思い出だけは勘弁してくれよ。」
「おお――船が動く動く!」
「動き出した動き出した! なかなか波が高いぞ。」
僕も立ちあがると、二人とも怖《おそ》ろしく脚がフラフラとして止め難く、二人は一旒《いちりゅう》の旗の両端をつかんだまま、
「いや、まあこれ[#「これ」に傍点]は君の手で!」
「いけない、今夜とそして進水日にはどうしても友達である君の手で!」
「志はありがたいが、俺にはそんな形式張ったことは柄に合わないから!」
「だって他に人がないことは解っているじゃないか!」
などと譲り合いつつ、酔いに酔った遠慮深いアメリカ・インデアンと美しいマイワイを纏《まと》った大男とは、牡丹《ぼたん》に戯れる連獅子《れんじし》の舞踊ででもあるかのように狭い部屋の中をグルグルと追い廻った。
(註一。スリップスロップ。――この間投詞は僕が若者間に流行させているもので、知らるる通り「汝の感傷癖を嗤《わら》うよ。」というほどの意味である。)
(註二。マイワイ。――これは豊漁の時に村中の人々に配布されるドテラ様の上着で、祝着と書いてマイワイと振り仮名すべきが適当であろう。多くは浅黄地《あさぎじ》にて裾《すそ》回りに色とりどりの図案にて七福神の踊りとか唐子《からこ》遊戯の図などが染出された木綿の長襦袢《ながじゅばん》のようなものである。祝着というても祝祭日に着るわけでもない。村人は薄ら寒い夕べの散歩時にも、部屋着にも、四季の別ちなく自由に着用している。余談だが、僕はアメリカ人である知合の一女性と毎年クリスマス・プレゼントの慣例を持っているのだが、去年の時は所持金が皆無で当惑の余り、七郎丸から貰《もら》った新しい祝着《マイワイ》に、貴女の国にては近頃|物数奇《ものずき》者間にてわれらが国の労働着がハッピイ・コートとやら称ばれて用いられている由なれど、これこそわれらが海辺の村の誠のハッピイ・ガウンなれば、試みに着用して茶友達の評を仰いで見給え! などと勿体をつけて贈り、絶大な感謝を享《う》けたことがある。)
そんな風にしていい争っていたが、七郎丸は不意に手を離してじっと息を殺したかと思うと、片手の平を耳の傍らに翳《かざ》して、
「聞えるだろう!」
と力を籠《こ》めて囁《ささや》いた。
外は隈《くま》なく冴《さ》え渡った月夜である。で、僕は和やかな波の合間に耳を澄して見ると、遥《はる》かの彼方《かなた》からカチン、カチンと頻《しき》りに響いている鑿《のみ》の音が伝って来る。僕は吸い込まれるようにその音の方に耳をそばだてた。
あたりの漁家は既にもう一様に燈火を消して眠りに就《つ》いたらしい中で、浜辺近くの松林の傍らにある船大工の工房だけが夜業に励んでいるさまが窺《うかが》われた。その工房は屋根だけで周囲の囲いがなかったから、その上仕事場の前の広場に焚火《たきび》があがっているので、働いている人たちの姿がくっきりとシルエットになって浮び出ている。
「もうやっているのか?」
僕は眼を視張って訊《たず》ねた。なんとも名状しがたい爽快な嵐《あらし》が僕の胸のうちには更に新しく火の手を挙げた。
「…………」
七郎丸は深く点頭《うなず》いてから、重々しい口調で説明した。
「丸源はね、先々代の七郎丸の友達でね――半ば義侠的にこの仕事を完成してやるという意気込みなんだよ。この月のあるうちに大方を仕上げてしまうと、今日力んでいたが、まさしく取りかかったじゃないか。あそこには十五人ばかりの弟子が働いているけれど、八人までは丸源の伜《せがれ》なんだぜ。そろいもそろって屈強な舟大工さ。そらそらあの焚火の傍で何か叫んでいるらしい赤鬼のような老人が指揮者の丸源だよ。……どうだい。」
焚火の炎が、月明の真中にともされた大提燈《おおぢょうちん》のように輝いて、働いている人たちの姿が、提燈の画になって見える。
「惜しい哉《かな》、声がとどかないな。」
「それは無理だ。」
「それが一層|輝々《こうごう》しい眺めと
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