―と。」
と詩人が僕にささやいた。あんな薄ぎたない居酒屋を、おそらくキイツの詩か何かで形容したことなんだろうが、マーメイド・タバンだなどと称《よ》び慣れて、現《うつつ》を抜かしていた詩人のお目出たさにはあきれたものだ――と僕は苦笑を湛《たた》えながら、
「桂冠《けいかん》詩人よ。」
と煽《おだ》ててやった。「都に行くとお前は宝石店の飾り窓に七宝《しっぽう》の翅《はね》をもった黄金の玉虫を見出すであろう。マーメイドの恋人の愛をつなぎたかったら宝石店の玉虫を送り給え。」
 詩人は僕の別れの言葉を上《うわ》の空《そら》に聞き流して、例の、
「これからあれへ、あれからこれへ!」を声高らかに歌いながら意気揚々と月明の丘を降《くだ》って行った。
「不安は事物に対するわれらの臆見がもたらすものであって、本来の事物に不安の伴うものではない。愚人にのみ悲劇が生ずる。俺はオデイセイに従って、森を抜け出た野獣の如くに、専《もっぱ》ら俺自体の力を信じて行こう。」
とBは、万物流転説を遵奉するアテナイの大言家の声色《こわいろ》を唸《うな》りながら未練も残さずに出て行った。不安も悲劇も自信も僕にとっては馬耳東風《ばじとうふう》だ。あまりBの様子ぶった態度が滑稽《こっけい》だったから、
「馬鹿な自信を持ってかえって不安の淵《ふち》に足を踏み入れぬように用心した方が好《い》いだろうよ。この弓をやろうじゃないか、腹の空《す》いた時の用心に――」
と、注意しようかと思ったが、振り向きもしないのでやめた。で僕は、弓なりにした剣の間から、敬うとも嗤うともつかぬウインクスを投げただけだった。
 Cは、無言で、ポケットの中の球を金貨のようにジャラジャラ鳴らしながら、とぼとぼと行き過ぎて行った。
「さあ、これで俺はいよいよ俺ひとりの天地になった。――ベリイ、ブライト!」
 僕は、薄明の彼方《かなた》に消え失《う》せる彼らの姿を見送って、丘の頂きで双手を挙げて絶叫した。
 昼間は野山を駆け廻って糧食を求め、夜は炉傍《ろばた》に村人を集めて爽快な武者修業談を語ろう。僕は、「思惟《しい》の思惟」に依って橄欖山《オリーブやま》を夢見る哲学者を憐《あわ》れみ、ヂオヂゲネスの樽をおしている詩人を軽蔑《けいべつ》し、統一のための統一に無味無色の階段を昇り降りし続けている物理学生と絶交して快哉《かいさい》の冠を振った。そして彼
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