ない、それに自分の家の者は、新時代の教養に目醒めてゐて、このボンクラ学校の変態教育法などに就いては不満を抱いてゐるし、寧ろ転校の意志を持つてゐる位である……。
「一日も早く恋人を見つけた者は、それだけ人生の幸福を余分に吸ひとつた生活の勝利者である――僕が読んだ小説の中に斯んなことが書いてあつたが、僕は身をもつてこの言葉を尊敬してゐる。」
塚越からそんな言葉を聞かされてゐたので、学校の控室はその時猛々しく涌きたつてゐたが、私は別段驚きもしなかつた。そして皆なが、彼を最も汚らはしい罪人であるかのやうに騒ぎたてゝゐるのも、塚越の影響で私は寧ろ不自然なことのやうに思はれるやうになつてゐた。
私は、その晩の一挿話だけを今は最も明瞭に覚えてゐるだけなのである。――私は、その晩塚越を訪れる為に道を急いで行くと、街角で、これも私を訪れるといふ塚越に出遇つた。
「海辺へ行かう。」と彼が云つた。
砂浜を歩きながら彼は私の肩に腕をかけて朗らかな声で云つた。
「君、驚いたか!」
「驚かなかつた。」
「悪口がさかんだらう。」
「とても、物凄い!」
「愉快だな!」と彼は胸を拡げて空を仰いだ。「その手紙といふのは、僕が、女性の筆蹟を真似て自分で書き、そして自分に宛て投函した偽の手紙なんだよ。それを僕はワザと落してやつたんだ。」
「……! 恋人は?」
「夢の中に生きてゐるだけさ――僕は、明日の朝早く、この町を出発して東京へ行く、それから英語の自信がついたらアメリカへ行くことになつてゐる。」
「君は勇敢だ!」と私は云つた。
「ワザと落したとは云つたが――が、君、その手紙を郵便配達の手から僕は、門先で受けとつたが、その時は、真に恋人からの便りに接したかの通りな悦びに打たれたぜ、何とも云ひやうのない嬉しさだつた。思はず僕は今君に、余外なことを白状してしまつたが、ほんとうは僕は今も、真に恋人が出来たつもりの心地に浸つてゐるのだよ。僕の名誉のためだなんて誤解して君、その真相を学校の奴などに伝へたりしないで呉れ給へよ、僕は、何も彼も決して不真面目な動機から行つたわけではないんだから……」
そして塚越は、一瓶の立派な香水と、シエレイの詩集とを――これは僕の恋人から、僕の友達である君への贈物だ――などと附け加へて私におくつた。
塚越の眼に涙が溜つてゐた。
三
それ以来何年目であらう、手紙
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