私は、五体までがしびれるやうな冷たさともつかぬ奇体な戦きに襲はれた、それが、その婦人であることに気づくと――。大分に注がれた酒が、一塊の氷のやうに固まつたかと思ふと、たちまち、また箭と化して、脳天から爪先を目がけて発止と駈け抜け、矢継ばやに颯々と射貫れて、何だか自分の体が、底のない一個の硝子の円筒のやうなものに変つてしまつたやうに思はれた。
その時扉の外で、私の名前を呼んで、
「居るかね、居るかね――」
と云ひながら近づいて来る声がした。――私は、返事も出来なかつた。おそらく餠でも喉につかへでもしたやうに苦悶気の眼を白黒させたことだらう! と、追想すると、恥のために死にたくもなる位ゐであるが、その時は、総身がぶる/\と震へるばかりで、それを更にあたりの者に悟られまいとする努力とがこんがらがつて、立往生の態であつた。
扉があいて、ぱツと光りが射し込むと同時に離されたから好かつたものゝ、素知らぬ風を装つて額に掌をあてゝ見ると、冷汗が玉となつてゐた。
「やあ、居るね。――大した騒ぎぢやないか……」
岡であつた。岡は真赤な顔をして私の傍らに立つと、
「君、実に済まんことをしてしまつたんだよ。」
と、てれて、眼をぎよろりとさせた。
「…………」
「勘弁して呉れよ、君――とんだ失策をしてしまつたんだが。」
前置ばかりを気の毒さうに岡が繰り返すので私は、不安の雲に巻き込まれたが、漸くその理由を聞くところに依ると、三日間の連続の仕事で、漸く壜型の「私」に微かな眼鼻のあり所が感ぜられるところまですゝんだところ、
「もう一枚着物を著せて置けば好かつたのを、ついうつかり前の日のまゝにして置いたら、すつかり凍つてしまつてね……」
と云ふのであつた。
「やり直しは、僕は平気だが。」
私は漸く言葉を発し得た。
つまり、壜型の粘土の私の像に、襤褸布の巻き方が足りなかつたゝめに氷結して、ポロポロになつてしまつたのである。
「失敬しちやつたな、どうも――」
「それは――ぼ、僕は関はんよ、どうせ、たゞ椅子に腰かけてゐるだけのことなんだもの、君こそ、馬鹿を見たゞらうが……」
「失敬、失敬――」
と繰り返して岡は私の手を握つた。
それから暫くたつて私は、ひとりでそつとアトリヱに来て見ると、なるほど壜型の「私」はすつかり水分を失つて石となり、試みにコツコツと金篦の柄で叩いて見ると、叩くそばからぽろぽろとくづれて、またゝく間にあとかたを失つた。
私は、モデル椅子にぼんやり腰かけて暮れかゝつた外を眺めた。――あの婦人の映像が、はつきりと頭にのこつてゐる。
「すつかり駄目になつてしまつたんだつて!」
私の後を追つて来た妻であつた。――私は、思はず飛びあがる程吃驚した。
「まあ、斯んなに!」
妻は、くづれ落ちた土を見て痛ましさうに呟いた。
「…………」
私は、妻に堪らない後ろ暗さを覚えるので、さつきの事を告げようと思つたが、それにしても、単に、あれだけのことを、何う云ふ術もないし、また、あの婦人の行動を積極的のものとのみ見て告げるのは、それも何とはなしに己れの卑怯を自分に見せつけるやうでもあり――だから、何も、あらたまつて云ふべきほどの事でもなからう、と、思ひ直したが、何うも胸に異様なときめきが後から後から津浪となつておし寄せて来るのに敵はなかつた。
「何うしたの、さつぱり元気がないぢやないの。がつかりしちやつたの?」
「さうぢやないが――。明日から出直して、この仕事にかゝるんだから、早目に来るとして、今日はこのまゝ帰らうかな。」
小屋からは、また合唱が響いてゐた。そして、さつきと同じやうに女の鳥に似たそぷらの[#「そぷらの」に傍点]もまじつてゐた。
私は、その明朗気な婦人の歌声に反感に似た軽い嫉妬を覚えた。
「あの方、名刺を下すつたわ。」
妻が小型の名刺を差し示したので、見ると「小倉りら子」と誌してあつた。
「絵を勉強してゐるんですつて――」
「…………」
「そしてね、絵の次に好きなのがウヰスキイなんだつて。」
妻は、まばたきもしないであらぬ一方ばかりを凝つと眺めてゐる私に、そんなことをはなしかけた。
四
ある日、私達は岡のアトリヱで酒を飲みはぢめて、近頃になく私は泥酔した。そして、まつたく前後不覚であつた。あまり多勢だつたせゐか、相手の顔すら悉く曖昧だつた。
朝眼を醒して見ると、何処だか得体が知れなかつたが私は、しやれたやうな部屋で、花美な蒲団に寝てゐるのであつた。
傍らを見ると、もう一つ並んだ同じやうな蒲団の中から、頭もろとも潜り込んでゐるので誰やらわかりもしなかつたが、ほんとうに雷のやうなと形容したい猛烈な鼾声が、ごろごろと鳴つてゐた。……その唸りは、さはつて見るのは薄気味悪いくらひに凄まぢく大波を打つてゐるので、私は、誰だつて関ふものか――と思つて跳ね起きた。
「……何ツ云つてやがんだい、べらぼう奴……グググ……」
突然、そんな音響がしたので、気をつけて見ると、それは眠つてゐる人の寝言であつたから私は、遠慮して部屋を抜け出さうとすると、なほもその人の寝言は意味も解らずに続いてゐるかと思ふと、やがて、それは何とも名状し難い不思議な、強ひて聯想を求めるならば鳥のかけす[#「かけす」に傍点]の鳴声のやうな、苦悶に似た叫びを挙げたりした。
――そんな奇声では、夢も醒めたか知ら? と思つて振り返つて見たが、相変らずその人は無何有の奈落で安心してゐる模様であつた。
ともかく、それは、男も男、たしかめるまでもなく度えらい男の、濁りを湛へたばす[#「ばす」に傍点]であると思ふと――私は何といふこともなしに吻つとして、著たまゝ寝てゐた著物の兵古帯などを締め直してゐると、間断なく鼾声と寝言が入れ交つてゐたが、寝返りを打つ拍子に彼は、家鳴りをたてゝ力一杯側らの壁を蹴つた。
それでも彼は、未だ夢が醒めないばかりか、頭だけを被著の中にかくして、不図私が見ると鬼のやうに逞しい荒くれた毛脛の二本の脚部をすつかり露出して、加けに、今、壁を蹴つた方の脚は、蹴つたまゝの有様で、壁の中腹にぬくぬくと立てかけて、休んでゐた。――もう一本の脚は(私は斯んなことを記述するのは実に閉口なのであるが、或る必要を覚えるので余儀なく誌すのであるが――。)私の蒲団の裾の方にふん張つて、膝をぎつくりと四角に曲げてゐた。また、一本の腕は、ぬつと頭の上に突き出て、枕をあらぬ方へ突き飛してゐた。
一体誰だらう、和尚か知ら、R村の加茂村長かしら――左う私が首を傾けたのは、常々和尚は、自ら「雷の如き軒声」と称して、自分のうたゝ寝の態を自慢してゐたし、またR村の加茂と称ふ大酒家の老村長は、自分は、寝言であらゆる秘密を口走る習慣があるので、うつかりしたところには泊れない、君となら――と私を指して、一処に旅行をしても平気であるがといふことを云つてゐたので、私は二人の何れかを聯想したのであつたが、若し私が、単に、その寝姿を眺めて、知人を想ひ浮べるならば万一的が外れた場合に、たとへそれが私の秘かな呟きであつたにしても、私は満腔の恥を強ひられねばならぬであらう――ことほど左様に、その人の寝像たるや世にも猛々しく、あられもない姿であつた。
更に私は、これこそ、記述を差控へるべきであるのだが(後になつて、この人が奥田林四郎と称ぶ或る男と判明するのだが、やがて私はこの男に惨々に苛められるのであるが、肚の中で癪に障るばかりで何うしても憎い奥田を説伏せしめることが出来ないで、無念の歯噛みをふるはせるといふことになるのであるが、そんな場合に立ち至つてから私は、わずかに奥田のこの[#「この」に傍点]寝姿を廻想して秘かに鬱憤を晴す想ひをするのであるからなのであるが――。)あゝ、やつぱり私は止めて置かう、不しつけであるばかしでなく、そんな描写は自ら卑怯と責められるから……。
――私は思はず袂で顔を覆ふと、這々の態で部屋を飛び出した。
和やかな朝であつた。
その館は、町端れの、時折り私が執筆の仕事等を携へて滞溜することのある海辺の旅舎だつた。
それは左うと――俺は自分の仕事をしなければならないのだ、うか/\と、もう幾月も遊んでしまつたことだ、今日はモデルが終つたら直ぐに帰つて来る、晩飯を待つてゐてお呉れ――と、はつきりと前の日に妻に云ひ残して出かけたまゝ、知らせもせずに他所に泊つてしまつたと思ふと私は、まつたくそんなことは珍らしいので、弱い心地になつて道を砂浜伝ひに急いだ。
五
私は裏の門から駆けこんで、直ぐに自分の部屋へ逃れて、もう一度寝直さうとする。
「やあ、お早よう!」
と、泉水の傍らで、私の妻と茶卓子を囲んでゐた倉が、変なわらひを浮べて厭に愛想よく呼びかけた。
一体私は、事もなくにや/\とわらふ人は苦手であつたが、倉の、にやりわらひは就中毛嫌ひを覚えるのであつた。
「夜をこめてのモデル働きぢや、仕事は一時にはかどつたことでせう?」
「徹夜でモデルになることなんてあるものか――酔つ払つてしまつたんだよ。」
「ほゝう!」
倉は、皮肉気に驚いて、
「そいつは、また滅法な元気ですね。」
などと、にやり/\としてゐるのだ。
「君は、居なかつたのか、昨夜は?」
「冗談でせう――拙者は、昨夜から引きつゞいてこの家の客だつたさ。大次郎も共々――奴は未だぐつすりだ。」
ぐつすりだ! といふ言葉を聞くと、私はさつきの光景を思ひ出して、総身に鳥肌を覚えた。
妻は、決して私の方を見向くことなしに編物をつゞけてゐた。――他所から泊りがけで帰つて来るやうな場合には、寧ろ晴々しく迎へるといふ風な、いつもは気の利いた細君であるのにその表情は何故か飽くまでも頑として、むつと唇のあたりが尖つてゐるのであつた。
その妻の姿では、寧ろ私の方が気嫌を損じてしまつた。
「奥田林四郎は、何うしましたか?」
倉が訊ねた。
「そんな人、知らないね。」
「昨日、あなたを訪ねて東京から来た人さ――作家ださうぢやないか……」
「あゝ、あの人か――あれ、奥田といふ人なの?」
私は岡のアトリヱで出遇つた洋服の紳士に気づいたが、顔は思ひ出せなかつた。
「あの人なら何も僕を訪ねて来たといふわけぢやないんだよ――。あいつは……」
と私は云つた。その時私は、その男が、とても真面目さうに眼を据ゑて稍ともすれば、芸術家としての立場として僕が云ふならばね――とか、結局僕はサンボリストなんで――などゝそれが酪酊者の耳にも酔を醒すかのやうなキンキンとした奇声で、鼻が、そいだやうに高く眼がぐるりと凹んでゐたことなどを微かに思ひ出した。そして、何とも、やりきれね男だ――と思つた印象に気づいた。
「あいつは。あの、小倉りら子さんの友達なんださうだぜ。」
「なるほど――」
その時、私は電話に呼ばれた。――名前を訊いて貰はうとすると、ともかく私に出て欲しいと云ふだけで、何とも云はぬといふのである。
「どなた?」
私は、突つけんどに訊ねた。――倉も嫌ひだが、あの奥田とかといふ奴は一層嫌ひだと思つてゐた。
「あの、あたくしよ……」
私には、直ぐにりら子と解つた。いつもなら私は、斯んな場合には仲々のつむぢ曲りで、そんな思はせ振りに出遇ふと、相手の名前が解つても、わざと素知らぬ風にしてゐるのであつたが、
(尤も、そんな験しは殆ど無かつたが。)
「あゝ、小倉さんですか?」
と爽やかに云つた。
「ほゝ、お解りになつて――お早うございます。」
「……いや、さうですか。」
「ほゝゝゝ、まだ、好くお眼がさめませんの。」
「いゝえ、そんなこともありませんが……」
「妾、今、どこからお電話してゐるかお解りになつて……」
「解りませんな。」
それよりも何うして彼女が、私のところが解つたのか、決して手紙のやりとりをした験しもないのに――などゝ私は思つた。
「あのね……今、お閑?」
「えゝ、まあ……えゝ、閑です。」
この退屈気な、そして、凡そ俗つぽく甘つたる気な相手の態度が、抽象的には私にとつては虫唾を覚える程疳癪にさわる類の
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