心象風景
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)土塊《つちくれ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そのまゝで/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
槌で打たなければ、切り崩せない堅さの土塊《つちくれ》であつた。――岡は、板の間に胡坐をして、傍らの椅子に正面を切つて腰を掛けてゐる私の姿を見あげながら、一握りの分量宛に土塊を砕きとつて水に浸し、適度に水分を含んだ塊を順次に取り出しては菓子つくりのやうにこねるのであつた。
岡の額には汗が滲んだ。彼の労働の状態を眺めてゐると、私も全身に熱を感じた。私達は朝の七時から仕事に着手して、午迄一言の言葉もとり交さなかつた。――極寒の日であつた。
岡が自分の手で建築した掘立小屋のアトリヱである。四囲の壁は、壁を塗るべき下拵へだけが出来てゐて、未だ壁は塗つてなかつたから、内に居て、外の風景が格子の間からキラキラと眼に映つた。碧い空が見えた。アトリヱの傍らの芝生には鶏や兎や山羊が遊んでゐた。窓では私達が捕獲した梟の籠が日を浴びてゐた。
このアトリヱを建てゝから四度目の冬の由である。凡そ一年に一作の彫刻家である岡は、このアトリヱで「兎」「鶏」「梟」等の作品をつくり、そして今年は「私」をモデルに選んだのである。
空では百舌が諧調的な鳴声を挙げてゐた。岡は、練りあがつた土塊を掌に載せて、空想的な眼差で稍暫く打ち眺め、そして、今度は怖ろしく入念な実験的な表情で凝つと私の顔と姿とを、それと見比べた後に――よしツ! と点頭いてから、ぽんと傍らの瓶の中へ投げ入れるのであつた。
やがて瓶は、ゴムのやうに柔軟な土で一杯に満された。
「これだけで丁度君の半身像が出来る分量だ――さあ、今度は支柱だぞ。」
岡は、バケツの水で土まみれの手を洗ひ、息も衝かずに次の仕事に取り掛つた。彼の達磨に似た容貌は、亢奮の息づかひで赤かつた。――岡は鋸を執つて、凡そ二尺四方角の平板を作つた。そして板の中心に、私の胸から凡そ眼の高さに等しい木片の棒を板の裏側から打ち抜いて一本釘の上に垂直に立てた。
さて、それを制作台の上に据ゑると彼は、主柱を心棒にして、其処に形造られるべき私の姿を、指先を持つて想像した後に、今度は荒縄を水に浸して、壁に向つて、サツと切つた。しぶきは壁の隙間を飛んで、軒下の八ツ手の葉に降りかゝつた。彼は縄の一端をつかんで更にもう一度空に、鞭に等しい凜烈な唸りを響かせ、力強く唇を噛みながら螺旋状にギリギリと支柱に巻きつけた。
其様子を見守つてゐると私は、体内に奇怪な震動を覚えた。此一本の支柱は私の脊髄に該当し、螺旋状に巻かれた荒縄は私の内臓器官と神経系統に相当する――と私は想像したのである。
「さあ、これから――!」
これが「私」の肉附けをするために、最初に土塊をとりあげた岡の最初の言葉であつた。私は、思はず、礼儀正しい写真を撮影する刹那に似た気取つた緊縮を身内に覚えた。
「自由な心持でゐて呉れ給へよ。そして自由なことを考へてゐて呉れ給へ。」
岡は云ひながら私の顔を視詰めて、一気に両掌の土塊を柱に固めつけた。岡が自発的に言葉を発したのを私は珍奇に思つた程彼は、酒に酔はぬ時は無口の質である。――柱は、忽ち百目蝋燭程の土の棒と化し、やがて間もなく柱の中下部以下が三倍の太さとなり、壜型となつた。混沌の大気の中に、雲煙が凝つてアミーバが形成される概であつた。
第一日の仕事を終へた。
岡は壜型の氷結を防ぐために、濡襤褸《ぬれぼろ》をもつて幾重にも大切にこれを包んで、最後に毛布を覆つてから、肩のあたりを細紐でくゝつた。
「斯うして置けば、このまゝ――若し君が幾日休んでも大丈夫……」
「出来るだけ毎日来るつもりだけれど、万一あまり長く間を置くやうなことがあると、君の創作気分に触るやうな場合はありはしないかね?」
私は、自信の無い受動的な気分ばかりで、そんなことを怖る怖る訊ねた。
「三年――」――岡は、眼をギヨロリとさせて唸りながら微かな笑ひを浮べた。――「三年、間が飛んでも此方は平気だよ。」
石油ストーヴは油が切れて、丁度、自然と火が消えたところだつた。
アトリヱを出て段々になつた桑畑を降り切ると、此処にも四角な掘立小屋がある。これも岡の手製の家で、以前彼は此処を木彫室に使つてゐたが、倉閑吉と鶴井大次郎が住み込むやうになつて以来は、二人のために完全に明け渡したのである。
囲炉裡で、さかんに火が燃えてゐた。鮒が焼かれてゐた。
「そんなに焦しては喰へぬぞ。」
「俺が喰ふのだ。お前の分はお前が焼け。」
「それは俺が釣つた魚だ。」
「いや、お前のは此方の小さい方だ。」
私達が扉をおした時、二人は肴のことで争つてゐた。常々倉は、鶴井を指して、彼奴はものの味が解らぬ山家の無頼漢だと軽蔑し、鶴井は反対に倉を目して、生臭好きの猥漢だと嘲弄し合つてゐる間であつた。事毎に反対の意見をおし立てゝ齧み合つてゐる仲だつたが、兎も角もう一年足らず、一つの小屋に起居してゐるわけであつたから、完全な敵同志ではないに相違ない。それにも関はらず二人の者は、一人の場合に他人に会ふと必ず、どちらかのことを敵と称んで呪詛した。不自然な生活の結果に違ひない。
二人は私達の顔を見ると、岡の仕事はじめのための祝盃を挙げるべく待つてゐたところである、酒は凡そ何升工面して来べきか? といふことを交々呼び掛けた。私達は、果して何処の酒屋がこゝろよく私達に一荷の酒樽を渡すであらうか? といふことに就いて寄々《よりより》会議を凝した挙句、隣り村の一軒の酒造家の主《あるじ》が岡の前年度の制作である「木兎」を望んでゐるらしい口吻である故、是を一番弁舌を以つて籠絡して来よう――と鶴井が勇敢な役廻りを買つて出た。
私と岡は、そして鶴井と倉は、四角な囲炉裡に夫々相対して向ひ合つてゐた。私は焔の合間から時々岡の方を見ると、彼の視線は何時も凝然と私の上に注がれてゐた。そして彼は、人知れず煙りのうちに指先きをもつて何かの輪廓を描いてゐるといふ風であつた。
その晩私は、酔ひ潰れて鶴井達の小屋に泊つてしまつた。――朝になつてアトリヱに行つて見ると、岡は瓶の土を練つてゐた。
「今日は無理だらう?」
と彼が云ふので私は、
「腰掛けてゐる位ゐ……」
さう云ひながら、モデル椅子に凭ると、岡は壜型の毛布を取除いて、仕事にとりかゝつた。
その日の仕事では、壜型の肩が稍扁平な壁になつて、頭部の丸味が伺はれる程度になつた。
仕事が終つたところに、私の妻が、私が前の晩帰らなかつたのを案じて来た。岡が私の代りに、私達が仕事の着手を悦んで祝盃を挙げ過ぎた事に就いて詳さに説明した。
「これが俺だよ。」
肥つた壜型を指して私が左う云ふと、
「未だ、これでは面影が解らないけれど――」
と、それが余りに無造作な恰好であることを何とはなしにわらひながら、
「それでも、此方が前だといふことは解るわね。」
さう云つて、未だ石地蔵ほどの人間味も現れてゐない「私」の土塊を、そつと眺めてゐた。
岡は襤褸布を絞つて、「私」を包みはじめた。
「もう幾日位ゐしたら、似て来ますの?」
「さあ――明日、若し、続けられるとして、続いて二日――位ゐしたら、そろそろヘラ[#「ヘラ」に傍点]を使ふやうになるでせうから……」
岡が左う云ふと彼女は私の方を向いて、
「ね、休まずに続けなさいな。」
とすゝめるのであつた。「二三日、此方に居続けたら何うなの?」
「それは――無理でせう。」
と岡が引きとつて、桑畑の下の小屋を指さした。――「病気になるといけない。」
岡が、この程度にでも物を言ふのは珍らしい! と私は思つた。
それにしても私は、モデル椅子に坐りはじめてからといふものは、何うもこれまでの私とは稍趣きを異にした寡黙家に変つたやうに思はれて来た。
桑畑の下の小屋からは、未だ日も暮れぬといふのに大きな酔つ払ひの声が挙つてゐた。鶴井の弁舌が効を奏して、四斗樽が到着してゐたのである。鶴井や倉の他に、別のしやがれた男の声と、鳥に似た女の歌をうたふ声が交つてゐた。
二
小屋から巻き起つて来る唱歌は、狸よ、狸よ、お寺の庭は、今宵も隈なき月夜の萩の花ざかり、同勢集めて出ておいで、一杯機嫌のお月見で、和尚さんは大浮れ、浮れて浮れてぽんぽこぽん、お前も負けずに打てや打て、ぽんぽこぽんと腹鼓……。
歌詞を私は、覚えなかつたのであるが、たしかそんな意味合ひのおどけた童謡で、ぽんぽこぽん……と、腹鼓の擬音を一節毎に合唱するのであつた。
それが物凄まじい胴間声と、しやがれ切つた調子放れの、だが歌手自身は唱歌手としての一種のポーズを執つてゐる態の有様が窺はれて、聴く者の身に悪感を強ひられる如き変梃なてのうると、さうかと思ふと、女のこれはまた実に突拍子もない人騒がせ気な、聴く者の胸に、その唱歌者の無神経質な偽陶酔状態を感ぜしめて身を切らるゝ百舌鳥に似たそぷらの、そのほか無造作に耳を澄すと、ひとつひとつが、いろいろな動物の不自然な場合に発する唸り声を例証に挙げて、滑稽めいた形容辞を冠せずには居られない底の、雑多な騒音が、決して飽和することなくばらばらに入れまじつて、だが、夫々精一杯に絶叫されてゐるので、寧ろ、それは、白昼であればあるだけ、あたりが森閑とした麗らかな冬景色の止め度もなく明るい畑中であればあるだけ、戸惑ひをして現れた化物共の有頂天の酒盛り騒ぎのやうに、不図私には面白く思はれた。お竹蔵の夜神楽が、真ツ昼間の田舎の空に飛び出して――私はそんな妄想に打たれて、得難い胸の高鳴りを覚えた。
「やあ、はじまつてゐる、はじまつてゐる――あツはツはツハ!」
私は、突然天を仰いで大笑ひの声を挙げたが、それは私の口腔を飛び出て、うらうらと冴え渡つた碧空へ散つてゆくのを気にして、見あげると「笑ひ」とは思へぬ――烏天狗の、人間《ひと》を威嚇する音楽のやうに享けとれた。近頃、とんと斯様な噂は消え去つたが、一体このあたりには私の幼時の頃までは、天狗の出没に関する事蹟が矢鱈に流布されて、悪夢を持つた人々の心胆を寒からしめてゐたものであるが。
どうにも前の晩の寝不足が祟つて、凝つと「モデル椅子」に掛けてはゐられなくなつたので、私は岡の仕事に中止を乞ふてアトリヱを出たのであるが、脚下に、なだらかな凹味になつた桑畑から、むつと噎せ返して来る和やかな陽《ひかり》にあをられると、人心地もなく、さんらんたる夢に酔ひ痴れてしまつてゐた。ところで、天と地の底なしの明るみを湛えた空洞の無音状態に耳をそばだてながら、貝殻の空鳴りと同様の、無形の、巨大な翅音の竜巻に巻き込まれて窒息しかかつてゐたところに、突如として、桑畑の一隅の小屋から破裂して来た珍奇な唱歌隊の合唱に、云はゞ私は救助されて、地上に伴れ戻されたのであつた。
小屋は、今や、未曾有の乱痴気騒ぎをはらんで、間もなく、はち切れんばかりの凄まじさの絶頂であるかのやうだつた。
私は、妻の手をとつて、
「行つて見よう、行つて見よう――」
と浮きたつた。
二人は、両腕を水平にして、丘の上に、爪先立つて、凧のやうに胸一杯に風を吸ひ込んだ。――そして、滑らかな芝生を、グライダアに化けた気で、一気に駈け降りた。ほんたうに、それは芝生を滑走して、突端に迫つたならば、ものゝ見事にふはふはと離陸出来さうな青空であつた。
「面白い、面白い、ハツハツハ……」
跣足か、でなければ薄底のサンダルでも穿いてゐるやうに、妻のも、私のも、靴音なんて知らぬやはらかな芝生であつた。
「凧だ、凧だ!」
私は、調子に乗つて、凧のやうに翼を煽ると、妻君も真似をして、唇にぶんぶんとぷろぺらの唸りを発しながら、小屋の窓から糸をたぐ
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