り寄せられてゐる通りに、一直線に騒ぎの方へ吸ひ込まれて行つた。
然し妻君は、二人今あの騒ぎの小屋へ沈没したならば、手もなく夜昼のけじめも忘れた泥酔の土鼠に化してしまふことを怖れて、もう暫くこの芝原で遊んで行かうではないか、岡のアトリヱから筵を持つて来て、橇にして、このスロウプを滑つて見ようではないか? などといふことを申し出た。
私は賛成して、上衣を脱ぎ、靴や靴下も棄てゝ運動の用意をした。妻君も私の通りにして、
「さあ、一二三! で、上まで、昇りツこ!」
さう云つてスタートの構へをした。
で、私達は兎のやうに丘を駆けのぼりはじめた。恰度中程にさしかゝつた時に私は、事更に脚を滑らして見て、
「アツ!」
と、叫んだ。適度なやはらかみと傾きの加減と明るさを湛へた絨毯に似た芝生の感触が、そんな誘惑を私に強ひたのである。ところが、滑り落ちはじめて見ると、それは、思つたよりも眺めたよりも、中々に嶮しい感じの傾斜であつて、私の体は頭もろとも、ものゝ見事に逆転して、樽のやうであつた。私に続いて妻君は腹這ひになつて横になると、忽ち風車のやうにグルグルと転げ落ちて来た。私は、下の芝生で待ち構へて、回転が止らうとするほんの手前で巧みに両腕に掬ひあげた。
二人は腹を抱へて笑つた。
私達が、そんな遊びを繰り返してゐる間も絶え間なく小屋からは、酩酊者の合唱が響いてゐた。
「あの仕事が、はじまつたとすると、あれが済むまでは、東京へ移れないかしら?」
妻君の云ふのは、私のモデルのことゝ、私達が同じ町に住む私の老母との間のことであつた。私達は「町の生活」をあきらめて、東京へ移らなければならないと思つてゐたのであるが永い間機会を逸してゐた。
「移れないこともなからうが――時々、此方に来さへすれば好いんだからね。」
二人は芝生に寝転んで、空を見あげてゐた。
「おうい、おうい! 此方をお向き!」
さういふ声がするので私達が振り返つて見ると、窓から半身を乗り出して倉閑吉が切りと此方をさしまねいてゐた。別段に、傴僂といふわけはないのだが、背中の曲り工合と丈の矮小のあんばいから、それに比べて不釣合な容貌の魁偉さ、その上、いかなる類ひの婦人に対しても単なる機会次第に依つて、おそろしく大胆な恋を挑むのが習性である彼をさして、皆なは、ノウトルダムのカシモドと仇名してゐるが、
「なるほど――」
と私は、夕映の逆光線を浴びて顔を歪めてゐる閑吉を見ると、たしかに、それは、カシモドと称ぶよりも、寧ろノウトルダムのシメイルのうちの何れかに類似してゐると思はれた。彼は画家と称して、一年ばかり前の春頃、凡そうらぶれた様子で何処からともなく歩いて、未知の私のところに宿を乞ひに来たのであつたが、いつの間にかから、小屋の連中と知合ひになつて今では此の方に移つてゐた。
彼は、二度ばかり私に向つて、
「君の女房は、僕に惚れてゐるよ。」
などゝ云つたことがある。平凡な好意を、自分にのみ特別なものと思ふ曲解者であるらしい――と私は思つたゞけであつた。然し私は、倉の不思議な虚栄心に好奇の眼を向けるやうになつてゐた。
「皆なが待つてゐるんですよ、早く来ませんか――」
倉は、ありたけの声で呼んでゐた。と、倉の姿が急に消え去つて(どうも、襟元をつかまれて引き込まれたやうだつた。)鶴井大次郎が乗り出た。
「アトリヱまで、歌が聞えたでせう?」
私は、点頭いて、それで出て来た由を答へた。
鶴井は「馬」といふ仇名を持つてゐるが、別段何処が馬に似てゐるわけでもないのだが、声の珍奇な太さなどにも何か馬を聯想するところがあるらしい――などゝ、私は今更のやうに思つた。倉の矮小に比べて、鶴井は六尺豊の大男であつた。
合唱中のあの[#「あの」に傍点]胴間声は鶴井であり、あの[#「あの」に傍点]てのうるは倉であることに私は気がついた。
三
で、私達がいそいで身仕度をとゝのへようとすると大次郎がさかんに手をふつて、そのまゝで/\と呼ばはるので、そのまゝ私も妻も上著を腕にかけ、泥の素足に靴を突つかけたまゝ小屋を目がけて駆け寄つた。小屋は相もかはらず此処を先途とはやしたてる合唱をはらんで、大浮れの絶頂であつた。ぽんぽこぽん/\のこうらす[#「こうらす」に傍点]が聴くも身の毛がよだつばかりに乱脈な調子で繰り返されてゐる。自分も酒に酔へばいつもあの通りに浮れて、あんな大はしやぎの旗振りになるのかと思ふと、真面目な人達に軽蔑されるのは無理もない――と私は思つた。
扉をおすと、歌は突然ぴつたりと止んだが、その時私は、思はず、
「あツ!」
と小声で叫んでしまつた。だつて、凡そ二坪ばかりの容体をもつた小屋の中に、まあ、何と、居るわ、居るわ! 数へやうもない、うよ/\とした者共が一杯、目白おしにつまつてゐるではないか。むうつとする酒の香りと煙草の煙りが濛々と渦巻いてゐる中に、しどけなく酔ひ痴れた男女がいくたりともなく折り重なつて累々たる有様であつた。――そして私達が入つてしまつた後から扉が閉められると、臆病窓に似た窓をたつた一つしか持たない小屋は牢屋のやうに薄暗くつて、あの明るみから飛び込んで来た私は、昼間の映画館に入つた時と同様に眼がそれに慣れるまでは余程の時間を要した。
「さあ、君が来るのを待つてゐたんだ、歌つて呉れ/\、例のナンシー・リーを――」
さういふ唸り声と一しよに、私の眼の先に茶呑茶碗の盃がぬつと突きつけられた。常々私が唱歌に関しては彼等のリーダーであつて彼等の歌ふ限りの大凡の種目は新旧の差別なく私の伝授に依るものばかりであつた。今、歌はれてゐた狸の唄は別だつたが――。
「やつぱり君が居ないと駄目なんだよ、何うも俺達覚えの悪いには吾ながらあきれたね、あんなに百万遍も教はつたナンシー・リーもリング・リング・ド・バンジヨウも乃至は旗の歌といひヤンキー・ドウルも、いざ歌はうとして見ると、おしなべてぽんぽこぽんの歌と同じ節になつてしまふんだよ。」
「君が先に立つて歌へば俺達も歌へるんだから、一つ、まあ端から順々に披露して呉れ。」
「――何を、はにかんでゐるんだい。愚図々々してゐると喉を絞めるぞ。」
八方から所望されるのだつたが、私は、白面といふばかりでなく、知らぬ人の顔が大分見うけられるので、有無なく調子に乗るわけには行かなかつた。で、私は、そんな呑み方は不得意であつたが、目をつむつて茶碗の酒をひつかけたが、さつぱり動く気色も感ぜられなかつた。
「さあ、歌へ/\、このモダン男……」
さう云つて向方側の隅から私に飛びかゝつて、実に堪らない口の悪臭をはあつと私の鼻に吐きかけた男に気づくと、緑山寺の和尚であつた。アトリヱの丘つゞきにある寂れた寺の住職で此処から歌が聞えると、とるものもとりあへず、生垣を飛び越えて屹度駈けつけて来るのである。四五日前、珍らしく鶴井が野良装束になつて、生垣のはちす[#「はちす」に傍点]の手入れをしてゐるところを見たので、私は、はちす[#「はちす」に傍点]の花を貰はうとして傍へ行くと、
「今ね、和尚の道を塞がうとしてゐるところなんだよ。どうも酒樽が着いて以来、泊りがけの御入来でね。」
と寺の方を指さしながら、生垣の穴をつくろつてゐた。――不図、そのことを思ひ出したので、私は窓に伸びあがつて生垣の方を眺めると、此間鶴井がぶつ/\云ひながら塞いでゐた生垣には前にも増した大きな花のトンネルが、鏡のやうに光りを吐いてゐた。倉や鶴井は、あの和尚は和尚らしくなくて、喧嘩と猥談にのみ長けた大生臭だ――と顰蹙するのであつたが、私には彼等自身の方が、寧ろそのまゝの言葉に適当する者と思はれた。
「俺が卵を売つた金で酒をぶらさげて帰る時だけは、奴等は、緑山寺さんだとか、大師さんだとかと云つてちやほやする癖に、此頃鶏がトヤについて俺の収入の道が絶えたとなつたら、忽ち手の裏を返しやがるんだよ。」
奴等といふのは眼の前にゐる倉や鶴井を指すのであるが、和尚は憤慨に堪へぬといふ口吻で私に詰め寄るのであつた。――「俺あ、ちやんと見たんだ、鶴井の野郎が垣根の穴を塞いでゐるところを――べらぼう奴、あんなものを突き抜くのは一ト息だよ。……あつはつハ……さあ、飲め、さあ、飲め、そして歌をうたふんだよ。」
「とつ、とつ、とつ……」
私は云はうとした言葉が、何故か急にどもつてならなかつた。「とつ、とつ……鶏《とり》が、何うかしたんですか?」
私の傍らにゐる一人の実に美しい(と私に思はれた。)、凡そ、この小屋に不調和な近代風の洋装をした断髪の婦人が、女だてらにあぐらに似た坐り方で、この人だけはウヰスキイのポケツト壜を前にして栓のグラスを傾けてゐるのであつたが、稍ともすると、凝つと私の方を向いて、此方の思ひなしのせゐか、なんとも甘々しい視線でいつまでも私を眺めるのであつた。――それが私は気になつて堪らなかつた。
「寒玉子で一番大いに儲けてやらうと、たくらんでゐたところが、つい先頃鼬の奴にねらはれてあらかた生血を吸はれてしまつた上に、残つた連中が五羽ながら雄でね、二羽の雌と来たらそれ、そのトヤといふものにつきやあがつて、さん/″\の態たらく……」
「そ、それあ、どうも――」
と私は上の空で同情した。
そのうちに、あちらはあちらで、倉と鶴井の激しい喧嘩がはじまつた。
「まあ、大さんの声の大きいこと……」
と婦人は、さう云つて、ほゝゝゝとわらつて、また、私の顔を見あげた。さつきの合唱中のあの「無神経質な偽陶酔状態を感ぜしめて身を切らるゝ百舌鳥に似たそぷらの[#「そぷらの」に傍点]」と形容した女声は、この人だな! と私は思ひあたつたが、此度はその声が、決してそんな風には私には響かなかつた。
「……あのね、あの、あたくし、斯んなことを直接に申すのは恥しいんですけれど……」
と、つゞけて婦人は真赤な唇を手の甲でおさへながら、視線は決して私から離すことなく円らにうつとりとさせたまゝ「もう何年も何年も前から、あなたの作品のとても熱心な愛読者なんですのよ。」
と、いともふくよかに呟いた。
「はあ、さうですか……」
私は、落つき払つたつもりで答へたが、にはかに胸が激しい鼓動を打ちはじめた。
「やい、この低脳の風来坊! 手前えは、ぬすつとだぞ。歩いて来た時のボロツ着物を着て出て行きあがれ。」
鶴井の声は益々高まつた。そんなことには私達は、至極慣れてゐたから誰も驚く者とてもなかつたが、罵り合ひは次第に激しくなつて、あたりを圧した。
「何とでも云やあがれ。――うぬ[#「うぬ」に傍点]が、お春に書いた手紙は皆な俺は読んで知つてゐるんだぞ。……ふつふつふ――だ。大した名文だよ。」
倉閑吉は、くるりと鶴井に背を向けて皮肉気な嗤ひを浮べてゐた。すると鶴井は、突然、髪の毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]つて
「あゝツ、口惜しいツ!」
と叫んで、ワツと泣き伏した。そして、「倉の奴は、自分が、文字といふものが何一つ書けないことを飽くまでも秘密にして、俺が書いた手紙を、そつと手写して、事もあらうにそれをそのまゝ、お春に渡して、加之に俺のことを、さん/″\にこき降した。」
と身を震はせて泣きながら、鶴井は誰にともなく大喚きに訴へた。鶴井は、もう、たしか四十歳であつたか? と思ふ。
「鶴井――」
と和尚が呼んだ。――「その手紙は倉に頼まれて俺が写してやつたんだよ。いきさつを詳しく聞きたかつたら、はちす[#「はちす」に傍点]のトンネルを俺の背丈けに明けたならばね……」
こつちでは、私の作品の「愛読者」が、
「あの、妹さんでいらつしやるんですか?」
と私の妻に訊ねてゐた。妻が、それに答へそびれて、どぎまぎとしてゐる様子だつたから私は代つて、云はうとした時、不図食膳の蔭にある私の手を、徐ろに力を加へながら握る者があつた。
妻かしら? と私は思つたので、見ると、妻は和尚を隔てた隣りで、熱さうに両掌で頬をおさへてゐた。
私は、ドキツとして慌てゝ手を引かうとすると、力一杯手首をつかまれてしまつてゐた。――
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