え。」
 彼は、さう云つてNの首たまを握つた。Nは、一寸赧くなつて舌を出した。彼は、手持ちぶさたを紛らすためにNの喉をギユツと絞めたりした。Nは、彼の腕を頤でおしかへしながら、
「割合に力があるね。」と云つた。
「そりやアあるともさ――ボキシングが如何《どう》だ斯うだなんて講釈するが、俺だつてNなんてには負けやしないぞ。」
「チエツ……」と、Nは笑つて相手にしなかつた。そして、Nは、突然、更に別な調子の笑ひ声を新しく挙げて、
「アツ! とう/\チエツ! と云つてしまつた。しまつたな。」
「アツと、俺もうつかりしてゐた。」などゝ彼は叫んだ。そして、二人はさもさも可笑しさうに声を合せてゲラゲラと笑つた。
「未だなの?」
 内から彼の細君が、声をかけた。「もう十一時になるわよ。」
「ぢや僕も一処に飯を食はう。僕は、もうお午だ。――そして、ほんとうに今日こそは、直ぐに泳ぎに行かうよ。」
「あんな溜り水みたいなところで泳ぐのは僕は、実は御免なんだよ。」
「また、負け惜しみが始まつた。」
「ほんたうよ。」と、細君もNに合せて、Nとはまつたく別な立場で憎くさうに云つた。「溜り水だ、なんて偉さうなこと
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