二人で相当に長期の旅行をするのが常だつたが(彼にはそんな経験はなかつたが)、そして彼は当時の父のことに対照して母の佗しさに同情したのであるが、父の亡いこの頃はその種の感情が如何しても起らないのが彼は、悲しかつた。……次郎が留守だと思ふと彼は、嘗て経験したことのない種類の、まつたく彼にとつては新しく驚くべき種類の嫉妬を、母に感じた。――以下の数言は省く。
彼は、昔から一人旅を一度も行つたことがなく今に至つてゐる。幼時の稀の家族伴れの遠足は思ひ出してもさつぱり面白くなく、何の憧れも起さなかつたし、中学を出る頃には、出かけないことが身に沁みてゐたから、出かけることを面倒に思ひ始めてゐたし、間もなく近所の娘と恋を語り始めてゐたので、そんな間もなかつたのであるが、そして、その後も旅を想ふ余裕なく因循に暮して来たのであるが、この頃になつて、何となく一人の旅でもして見たい程な心に時々かられた。
「好く出かけさせたもんだなア?」
「だつてもう大丈夫ぢやないか。夏のうちには、また何処かへ出かけるつもりだよ。」と次郎は、誇り気に云ひ放つた。
「さうかのう!」
彼は、今までの続きの戯れの調子で次郎に点頭
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