満足させた。たしか、四年生の夏までタラヒ舟に乗つた。……あの青海原を悠々と泳げ廻れたらどんなに愉快なことだらう! 来年こそは屹度上達して、彼等の仲間に加はらなければ措かないぞ! 斯んなことを熱心に想つた。そのために彼は、或る年の冬などは、家人に病気と偽つて、伊豆の方の温泉で、游泳が出来る程の浴場のある処に滞在したこともあつた。勿論、悉く水泡に帰したことは云ふまでもない。
毎年、夏になると同じ憧れを繰り反し、同じ悲しみを味ひ、その熱心さには何の変ることもなく、いつか彼は三十歳の夏を迎へてゐたのである。
「A――にゐた時分……」と、彼女は、以前彼の故郷でない辺鄙な海村に彼と陋居した頃の夏の海の話に移らうとしたが、そこではまた彼のことを挟まなければならないことに気づいて、一寸どぎまぎしながら、一言、
「あそこの海は、おだやかで好かつたわよ。」などゝ話を反らせて、其処に居た頃も彼は、口では水泳に関した様々なことを吹聴しながら、一遍も人の見るところでは泳がなかつたことなどを思ひ出した。
「そりやア、房州の方が好いさ。」
Nが、彼女にさう云つた時彼は、突然妙に熱心な眼を向けて、
「ほんたうに好いか、遠浅か?」と訊ねた。
「うむ。」
「何れ位ゐ?」
「さア、それは解らないが。」
「可成り遠くの方まで行つても丈が立つか?」
「立つよ。」と、Nは訝し気に点頭《うなづ》いた。
「賑やかゝ?」
「そりやア、もう!」
「行きたいなア!」
彼女は、頓狂に独言した。
「ほんたうにお出でよ、男で泳げない奴なんては来てゐないが、女は随分多いからね。」
Nが、あまり無造作に云ひ放つので彼女は、ヒヤリとしたが、また擽られるやうな切なさも覚えた。――「あたしだつて、一町位ゐなら泳げるのよ。」
「それぢやア、もう……。行かうよ。」
「でも――」と、彼女は云ひかけて、いつの間にか横を向いて、まつたく別のことでも考へてゐるといふ風に白々しくムツとしてゐる彼を、眼でNに示した。
「嫌ひなの?」と、Nは囁いた。飽くまでも彼の心境に気づかないNの朗らかな調子が更に彼女の苦笑を強めた。何と答へて好いか? 彼女は、わからなかつた。
暫くたつて彼は、
「俺は、山が好きだ。独りで何処かの山へ行かうかな。」と、はつきり呟いてゐた。その態度は、彼女の徒らな臆惻を不安にも、裏切つた程の自信に充ちてゐた。
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