秋晴れの日
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)稀《たま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)朝夕|内外《うちそと》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ピシヤ/\と
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 彼は、飲酒があまり体質に適してゐないためか、毎朝うがひをする時に、腹の中から多量の酒臭い不快な水を吐き出した。前には、それは時々のことだつたがこの頃では、これが定めとなつてしまつた。そして、これも前には稀《たま》であつたが、この吐く水がなくなると、一層激しく、胸や腹が、空々しく、苦しく、ゲクゲクと鳴つて、それから苦く黄色い胃液を吐き出した。
 大体彼は、生来健康な質だつたから、どんな医学的の知識にも欠けてゐた。だから、初めはこれに随分驚かされて、洗面の後暫くの間は何時も精神的な鬱陶しさを強ひられるのが常だつたが、それも今ではすつかり慣れてしまつて、どうかした調子に中途で収まりさうになると、故意に喉を鳴らして技巧的に吐き出すこともあつた。
 左様《さう》して彼は、毎朝日課のやうに、何となく洞ろな感じに苦しい、酷く騒々しい手水を使ふやうになつてゐた。
 彼の四歳になる長男は、毎朝その傍で父の異様な苦悶を見物した。そして、稍ともすればゲーゲーと喉を鳴して、その時彼がするやうに両手を糸に吊された亀の子のやうにひらひらさせて、その彼の苦悶の真似をした。――どんな種類の苦しみに出遇つても、まつたく堪《こら》え性のない彼は、その通りに毎朝、縁側の端の、洗面が終れば直ぐに取り片づけてしまふ流しにのめつて、いつも変りなくそんな格好をするのが習慣の一つになつてゐた。
「そんなに苦しいのなら止せば好いのに、お酒なんて、それほど好きでもなさゝうなのに――」
 時にはそんな風に傍から哀れまれると、何時も彼は、同じ言葉で毒々しく反対するのが常だつたが、この頃では、思はず鹿爪らしい顔をして、
「さうだなア?」などゝ沁々とした嘆声を洩しながら、わけもない退屈をかこつた。――(意久地がないんだ、肉体ばかりでなく……心が。)――「何か素晴しく激しい運動をしようと思つてゐるんだ、夜になると同時
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