]三[#「三」は中見出し]
洗面の流しの下が、ぬかるみになるので彼は、家主のところから鍬をかりて来て棄て水のハケ道をつくつてゐた。
「何アんだ、斯んなところか。」
安堵して叫んだ時の溜息に似た声を背後に感じたので彼が腰を伸して振り反つて見ると、藤井の弟の良介が笑ひながら立つてゐた。藤井とは彼の故郷の古い友達である。
彼は、嬉しさうに良介を眺めて、暫く会はなかつた友達が偶然出遇つた時に取り交す親し気な素振りを現した。そんな時には彼等は、割合にあたり前の口を利いた、それより他に手だてを知らないといふ風に――。良介と会つたのは二年越しだつた。
「休み?」
「この頃は、お盆の休みなんてありやアしないよ。」
良介は、気拙さうに笑つた。良介は横浜で何某の店に務めてゐた。
「兄貴にこの間会つたよ。」
「さう。――」
「この頃ヲダハラへ帰るか?」
「さつぱり。――」
それから一過間ばかり経つて彼の弟の中学三年生の次郎が、日本アルプス登山の帰りがけだと云つて、登山袋を背おひ、登山杖を曳いて来た。国分寺で、友達と別れて此方に立ち寄つたのだと云つた。
「兄さんとの約束なんて待つてゐたひには、つまり行き損ふといふことなんだからね。」
「さう、さう、そんな約束もしたことがあつたつけね。」と、彼女は云つた。
「五六年も前から……」
次郎は、袋の中から絵葉書などを取り出して僅かな見聞を披瀝した。
彼は、そんな話よりも、宿屋に泊る場合には、どんな風にして入つて行くのか? いきなりツカツカと入つて行つて物をも云はずに玄関に突ツ立てば、それでもう泊り客といふことは通ずるのか? そんな風にしても向方でウロンな顔つきをしはしまいか? 泊り方には上等・下等といふ風な区別があるのか? 若しも下等に泊ると間の悪い思ひをするんぢやないか、いくら学生でも二三人伴れでは? 宿料はどんな風にして支払つたのか? 友達同志だと反つて各々の勘定をいちいち各々で支払ふのは変に具合が悪いだらう? 誰かゞ纏めて支払つて後から当人に返済するやうにしたのか? それも何だかお互ひにキマリが悪いだらう? それともお前達はそんなことは平気なのか? 宿屋に着いて飯を食つてしまふと直ぐに寝てしまふのか? ではどんな話を主にするのか? 女中に用事を命ずる場合だつて吾家のそれとは余程要領が違ふだらう? お前なんかでもテイツプをやつた
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