が相変らず黙つて反ツ方を睨めてゐた。変な奴だなア!
 彼女は、その様子を眺めてそんな滑稽感を覚えて清々としてしまつた。そして、Nを相手に嬉々と話をはじめた。
「N――ちやんは、何処かへ行くの?」
「来月になつたら、友達と一緒に房州の方へ行く筈になつてゐる。」
「ほう、羨ましいわねえ! あんたは、泳ぎが随分巧いんだつてね。」
「あゝ。」
「教はりたいわ。」
「八月中あつちへ行つてゐるから、その間に来ない。」と、Nは誘つた。
「行きたいなア!」
 彼女は、そつと呟いた。
 彼女の想像以上に彼は、三十歳の男としては全く不釣り合ひな生真面目に、常々から泳ぎの出来ないことを苦にしてゐるのであつた。海辺に育つたゝめか彼は、幼少の頃から、それが不得意であるといふことに、己れさへ可笑しくなる程に熱心な、情けない恥を持つてゐた。どうしても泳ぐ術の出来ない水夫の煩悶にも似てゐた。彼が、嘗て書いたことのある或る小説は、そんな憧れの心のみで全篇が埋つてゐるものさへあつた。
 技が拙いのも勿論だつたが彼は、バカに海に臆病だつた。そこは荒海で、未熟な水泳者には危険な海だつた。彼は、家人から海へ行くことを厳禁されてゐた。でも土地の中学に入つた初めは、家人にかくれて時々海へ出かけた。一年生時分には、普通より体が小さくて心もそれに順当してゐたから、渚だけで勇ましく砂遊びをしたり、手足を底につけて泳ぎの真似をしてゐるだけでも相当に愉快で、恥も覚えなかつたのであるが、翌年になるともう誘はれても行く気がしなくなつた。友達は、忽ちのうちに上達して、俺はもう汽船の着く処までは平気で往復出来るやうになつた、などゝ楽し気に語り合つては、秘かに彼を憂鬱にさせた。誘はれると彼は、今日は頭が痛いとか、用事があるからとかとあらぬ口実を造つて断つた。毎年夏になると、学校では水泳練習団を組織して遠方の危険のない海辺に合宿する定めがあつた。彼は、毎年それに加つて出かけたが、いつも途中で、合宿生活が厭になつたり、あまり熱心な練習生達に反感を持つたりして、一週間も我慢せずに帰宅して了ふのであつた。帰れば、吾家はやはり海辺にあるのだ。そして友達は、皆な海辺の選手で、遊び仲間などは一人もなくて彼は、因循に夏を過すのが常だつた。彼は、口惜しさのあまり座敷に転がつて、教則本を頼りに水泳の練習をしたり、庭先きの小さな池にタラヒを浮べて憧れを
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