したといふのである。私は二十九歳の今日まで一度も旅行したことはないのだ。同姓同名の誤りだらうと云つた。それでも私は警察の寒い一室で、一切の履歴を申し述べなければならなかつた。
「あなたは『蝉』といふ小説を書きましたか?」
「えゝ、書きました。」
「どんな内容ですか?」
「一口には云へません。」
「その男が、俺は『蝉』といふ小説を書いたと云つてゐるのです。」
「ぢや同姓同名の誤りぢやないんですな。」
「偽名ですかな。」と警察官は云つた。
「ほう!」と私は、思はず眼を見張つてセセラ笑ひを浮べた。
「あなたは酒は飲みますか?」
「えゝ、飲みます。」
「どれ位ゐの量ですか?」
「さア……」
「二三合位ゐですか?」
「そんなものでせうな。」
「酔ふと、どうなります。騒ぐ方ですか? それとも眠る方ですか?」
「元気溌溂とします。」
「本名の他に、筆名がありますか。」
「ありません。」
「裕三郎といふ名前があることになつてゐるんです、これが――」
「なるほど!」
「酔つて「蝉」の真似をしたんださうです。」
「さうですか。」と、私は答へた。小説『蝉』の内容をこゝに書くことを略すが、私は苦笑を洩すより他
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