はなかつた。禍は別として、その時私はその見知らぬ悪漢に軽い親し味を感じたりした。だがその日の不気味さは容易に消えなかつた。
「それにしても俺の名前などを用《つか》ふなんて可笑しいな。いたづらにしては酷過ぎるし……」
「有名でないところが、却つて都合でも好かつたんでせうね。」と周子も苦笑を洩した。私は、折角忘れかけた恐怖の念がまた甦つて漠然と胸を震はせた。見知らぬ人、偽名、そんなことを想ふと、それが緒口になつて暗澹たる広漠の世界が思はれたり、不吉な風が山も川も木々の差別もなく吹き荒む、運命、死、恐怖――そんなありふれた、だが夥しくグロテスクな絵が浮んだり、夢のやうな不安に襲はれたり、何処か遠くの知らぬ世界に突然拉し去られるやうな寂しい思ひがした。
「そんな面白くない話は止めよう。」
 私は、首を振つて、一気に盃を傾けた。そして三月に死んだ父のことを回想した。……(大地震、大火、父の死、家運の衰微――)
「田舎行きは如何するの?」
「それも面倒になつたんだ。」
「だけど、この家ぢや、ともかく寒くつてやりきれませんね。」
「くよくよするねえ。」と私は、突然景気好く酔つた声を揚げた。そして、声
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