なかつたのか!
 私は、徐ろに首を挙げて呟いた。――ランプが燭つてゐる! 櫓に駈け登らうと身構へたアンドリウが、屹つと天井の一方を睨んだ挿絵の頁が、鈍い灯火の光りを浴びてゐる。……不図、眼を挙げた時私は、今のあの騒ぎは夢だつたか! と思つたが――。
「おゝ、寒さで言葉も凍りさうだ。誰か来て呉れ、おゝ、怖ろしい風が吹いて来る気合ひだ。救けて呉れ……」
 戸外の声は絶え入りさうな悲鳴と変つて来た。それよりも私は、あれらの事ごとが夢であつたか何うかといふ疑問が、胸の底を冷たく青蒼めさせて行つた。私は、自分の行動に自信を失ひ、白日の陽を浴びることに涯しもない不安を覚えて今にも迷妄の吹雪に昏倒しさうな、そして見る/\うちに蝋燭のやうな我身が煙りと化して行く想ひに引きずられて行つたが、救ひを求める凄惨な声が益々高く低く縷々として私の耳朶に絡まりついて来る空怖ろしさに堪へられなくなつて、凡そ、もう、さつきの、勇敢な騎士とは裏はらの臆病な幽霊のやうな脚どりで、扉をおし、そして、
「喧嘩でも起つたのかな?」
 と、わざと眠さうに眼をこすりながら、雨戸をあけた。屋上の格闘が若しも夢でなかつたとすると、悲鳴
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