ゐるのだ……反つて、それが幸ひだ、止めよう/\。そして、親父が経営してゐる山の材木工場へ行かう。)

          *

 あれから、もう十年に近い月日が経ち、自分は三十歳の男になつてゐる。
 静かな、初秋の夜である。――この頃自分は、飲酒家になつて、いつにも斯んな静かな夜に出会つたことがない。
 自分は、今机に向つてゐる。まつたくの無感想状態である。若し、これで自分が何か書かうとしてゐるなら、呆れた無法者である。
「笑はせるぢやないか! 机の上には、厳然と詩箋がのべてある、麗々と筆がその傍らに備へてある――大体、あいつ[#「あいつ」に傍点]は何のつもりなんだらう。」
 何ンにも聞えて来ない。こゝは、東京郊外の寓居で、あの波の音も聞えない。
 この頃、自分は盛んに寝言を云ふさうだ。親父のやうに頭が鈍いのに違ひない。――親父の寝言も聞えない。彼は、をとゝしの春永遠に眠つた。
 今夜自分は、何か書くつもりで酒をやめて机に坐つたのである。(この頃は、机に向ふ時は、昼間ばかりなのだ。)――ただ、斯うして坐つてゐるだけなら、清々と好い。
 せめて、月でも出てゐると好いんだが、生憎闇夜である
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