で、
「カル子さん!」
 駄目々々、これ位ゐほんとうらしく彼女の名前を呟いても何の亢奮も起らない、あれ程自分は彼女に恋してゐるんだがな?
 まつたく今、自分の頭は無である。
 若し、これで自分が何か書かうとしてゐるなら、呆れた無法者である。
「笑はせるぢやないか! 机の上には、厳然と詩箋がのべてある、麗々と筆がその傍に備へてある――大体、あいつ[#「あいつ」に傍点]は何のつもりなんだらう。」と、自分は呟いて、吾ながらウロンな気がした。
(あいつは何のつもりなんだらう。)
 これは往々自分が、吾家の同人から放たれる言葉の、口真似である。――云はれた当人が、口真似をしてゐれば世話はない。
「今日も、お午過ぎにカルちやんに起されたんです。」
「俺は、あいつが帰つて来てから一度も顔を合せたことがない、一体何時から帰つて来てゐるんだらう?」
 カル子にいつもより少し早く起されたので彼女が帰ると自分が眠くなつて、座敷に転がつてゐると襖を隔てた茶の間で父と母が、自分の噂をしてゐた。
「六月の中頃ですよ。」
「何か、肚に不平でもあるんぢやないか?」
「年頃ですからね。」
「夜は、出掛けるかね?」
「こ
前へ 次へ
全12ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング