た。この家の連中が暗に彼に要求することの、反対の結果が彼の胸に拡がつてゐたから――。一体彼には、さういふ癖があつた。例へば自分の前に来て、誰かの悪口を吐く人になど出遇ふと、一応はウンウンと云つて聞いてはゐるが、そして時には自分も一処になつて喋舌ることもあるが、いつの間にか、そこで悪口を云はれてゐる向方の人が、反つて懐しく、好きになつて来るやうな場合があつた。
「さうだ、これはたしかに巧い思ひつきだつた。」と、彼は思はず口に出して独言した。
古い浪曼的な幾つかの英詩を探し出して、耽念にこれを翻訳して、そして厚い紙に綺麗に清書して。何枚かを丁寧に立派にとぢて、恭々しく母に捧げよう……これやア、案外仕事としても面白いかも知れないぞ――などと、彼は呟いた。
(先づ、おるずおるす――か?)
彼は、母から英文学士と称ばれたことが、奇妙に嬉しかつたのである。そして彼は、一躍厳格な学究の徒になつた気がして、衒学的に眉を顰めて、幕の間から暫く外景を覗いたりした。――花やかに、大片の雪が降つてゐた。火の見塔が、雪にぼかされて煙突のやうにぬツと突き立つてゐた。勿論、見張りしてゐるに違ひないのだが、見張り番の姿は見えなかつた。顔つきばかりで、彼の心は無暗に白いばかりだつた。たゞ、今漠然と心を躍らせた形のない力が、形あり気に、ハラハラと顔や胸に雪のやうに暖く、冷たく、こんこんと降りしきつて間もなく五体までも、埋り、溶けてしまふやうに恍惚とした。――さつきからのウヰスキーがさせる業なのであらう、冷たく、暖かく、雪が、雪景色が、冷たく快かつた。――無い智識を振りしぼつて、努めて翻訳などをしないでも、三つや四つ位ひは立所に叙情的な詩が作れさうだ――ふと、そんな気もしたが、永遠に詞想からとり残されたカラの頭が、幕の間から雪景色を眺めてゐるだけのことに気附いて、彼はテレ臭い苦笑を浮べて、幕をとぢてしまつた。――そして、翻訳に心を反した。だが、二ツ三ツうろ覚えのウオーズオースやテニソンでは、折角翻訳しても、母だつて見覚えがあるかも知れない、「英文学士」の称号を取り上げられてしまふかも知れない、――それじや、何もならないし、語学力は中学の頃と何の変りもないし、
「折角の計画も、駄目かな。」と、思つて彼は、行火の上に首垂れた。――いや、いや、そんなことぢや仕方がない、間もなく自分の生活は、大変惨めなもの
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