鏡地獄
牧野信一
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)反向《そむ》けたかつた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一層|怪《おか》しい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)馬鹿/\しい
−−
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「この一年半ほどのあひだ……」
せめても彼は、時をそれほどの間に限りたかつた。別段何の思慮もなく、何となく切ツ端詰つた頭から、ふつとそんな言葉が滑り出たのであるが、そして如何程藤井に追求されたにしろ、何の続ける言葉も見当らなかつたのではあるが、思はずさう云つた時に漠然と――せめても時を、それほどの間に――そんなことを思つたのである。一年半、といふのは、父の死以来といふほどの代りに用ひたいらしかつた、誇張好きの彼にして見ると。
「…………」
藤井は、困つたといふ風な気色を示した。次の言葉を待つまでもなく藤井には、彼の意図は解り切つてゐたから、
どうせ、また法螺まぢりの愚痴か! ――斯う思ふと、舌でも打つて顔を反向《そむ》けたかつたが、この時の彼の語調が如何にも科白めいてゐたのに擽られて、思はず藤井は朗らかな苦笑を浮べて、
「相当、苦労したかね、はじめてだらう。」と、噴き出したいのを我慢して訊ね返した。――まつたく藤井は、噴き出したかつた。彼が、そんな言葉を事更らしく、感慨あり気に用ひたのも藤井は、可笑しかつたが、それよりも、厭に物々しく、見るからに愚鈍な顔を歪めて、唸つたりなどした身柄に添はぬ彼の勿体ぶつた様子が、藤井にとつては先づ噴飯に価したのである。
「え?」
「冗談ぢやない。」と彼は、無下に打ち消した。そして彼は、あゝ、と、当人はそのつもりかも知れないが、傍の者にはさつぱり憂鬱らしくも、倦怠らしくも見えない梟のやうな溜息を洩した。
「それやアさうと……」
「その話は、また明日にでもして貰はうか。」
彼は、さう云つて、気分家らしく軽く眼を閉ぢて、直ぐにまた洞ろに開いた。
「もう間もなく一週間になりさうだぜ。」
「だがね、僕近頃、相当酒を楽しんでゐるんだよ。だから、
次へ
全55ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング