せめて斯うやつてゐる間だけは僕の……」
 彼は、出鱈目を云つてゐるのに気づいて言葉を呑み込んでしまつた。
「君の気分になんて、つき合つてゐたひにはいつ迄たつたつて埒が明きさうもないぜ。」
 藤井は、人の好い笑ひを浮べた。――「昼間は、殆んど眠つてばかりゐるんだし……」
「君だつて、どうせ帰つたつて用はないんだらう?」
「冗談ぢやない――と、君の言葉を借りるぜ、僕アこの頃相当忙しいんだよ、二年前とは雲泥の差さ、……勘当が許されたひには、これでも一ツ端の長男だからね。」と藤井は、親切に彼の心を鞭韃するやうに云つた。藤井は、彼の同郷ヲダハラ村の一人の彼の友達なのだつた。藤井は、ヲダハラの彼の母から破産に近い彼の財産に就いて、いろいろ彼の意見を正す為に、わざわざ頼まれて出かけて来たのであつた。
「手紙の返事も君は、碌々出さないさうぢやないか?」
「うむ――。だけど僕の手紙嫌ひは何も今に始まつたことぢやないからね。」などと彼は、言葉を濁して、不平さうに口を突らせたりした。
「そんなことは何も責めやアしないがね……」と藤井は、常識に達してゐる大人らしく一笑に附して「ともかく、その銀行の方が――」
「藤井!」と、彼は云つた。「僕ア――今、そんなことに耳を傾けちやア居られないんだ、――僕ア……、僕ア……」
「呑気だね!」
 その時、隅の方でぼんやりしてゐた彼の細君は、
「チエツ!」と舌を鳴らした。彼には、聞えなかつたが、藤井は同感した。
「嫌ひなんだよ、僕アさういふ面白くない話は……」
「誰だつて好きぢやないが――」
「どうなつたつて、関はないと思へば、聞かないだつて済むだらう。」
「ぢや、それア、明日にでも仕様よ、――酒興を妨げては悪いからね。」
「中学の頃の話でも仕様か――」
「う、うん――君、何も東京に住ふ必要はないぢやないか。無駄ぢやないか? マザーもさう云つてゐたぜ。」
「さう云つてゐたか?」と彼は、酷く驚いたといふ風に眼を輝かせた。
「尤もさ――馬鹿だなア!」
「…………」
 別段に彼は、逃げるといふ程の積極性もなかつたが、破産に関する話よりは、興味が動いた。彼は、盗賊の心になつて、母の家の前を、爪立つて通らなければならなかつた。……さつきから、彼は、秘かに――消えかゝりさうになる心が、時々それに触れる毎に、怪し気な光りを放つては消え、放つては消えて来たのであつた。
 
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