は父の少しばかりの蔵書である英文学書すら読めもせず、読まうともしなかつた。
 誰が読むといふわけでもなく、彼の家にも古くからの習慣で、月々村の書店からいくらかの雑誌が入つてゐたが、そのうちの通俗的でないものだけを彼は、伊豆に逃げのびた頃から、巧く母に断つて、書店から直接彼宛に郵送させた。東京に住む現在でも、それ等は附箋がついて回つて来た。彼は、母にいろいろの書物を呈供することを約したこともあつた、近頃の書物は、お前に選定して貰つた方が好いだらう、と母が云つたので――。
 村山氏といふのは、あまり彼の家と仲の善くない近所の会社員だつた。
 村山氏が、自分の何を読んだのだらう――と、彼は思つた。そして彼は、自分が今迄に書いたいくつかの小説の題名や内容を回想して、案外呑気な笑ひを浮べた。――たゞ村山氏が何んな気持で、彼のことを母に通じたか? が、解る気がした。ずつと前父をモデルにした小品文を父に発見されて激怒を買つたことがあるが、そして酷く困惑したことがあるが、この頃ではそれ位ひのことで困惑する程の余猶もなし、若し母が読んで「腹を切つて死んでしまへ!」――母は、好くさういふことを云ふ人である――と、云つたら、
「自殺は嫌ひだ――眠つてゐるところでもを闇打ちにしてくれ!」位ひの図々しさは用意してゐるんだが、勿論読まれたくはない。
 村山氏といふ人は、他人の不祥事や秘密を発いてセヽラ笑ふことが好きな人である。内容には触れずに、好い加減な皮肉で、彼の母を悦ばせたのであらう! 村山氏を、憎む気にもなれなかつたが、愚かなお調子者の非文学的な彼の小説のつまり彼である主人公が、ペラペラと吾家の不祥事を吹聴したり、親の秘密を発いたりする文章を書き綴つてゐる浅猿しさを、彼は自ら嘆いた。そして、何も知らない母が気の毒であつた。彼は、想像力に欠けた己れの仕事が憾めしかつた。また、下らない奴に邪魔される迷惑も感じた。
「翻訳をして、母に送らう。」
 彼は、母の手紙を読み終ると同時に、思はず斯んなことを呟いだ。一寸以前の彼であつたら、ワザと意地悪る気な笑ひを浮べて、――斯んな刺激も必要だ! とか、不徳の罰だ! とか、と安ツぽく露悪的に呟くに違ひなかつたが(現に彼は、さういふ小説を書いてゐる。)、そんな感情は巧い具合に、この家の一種彼にも通ずる卑俗な連中が、あゝいふ態度で彼の心を拭つたやうなものだつ
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