の仲間入りをして、母上よ、安んじ給へ! などゝ祈つてゐることも彼は、面白かつたが、一時間も辛棒してゐると、反つて不純な己れを見るやうな浅猿しさに辟易して、ほうほうの態で二階へ逼ひあがつた。そして、この寒さも厭はず、この村社の急拵への神楽殿にも似た部屋に、幕を引き回らせて、筒抜けたやうな顔をして閑ぢ籠つてゐた。
「郵便」と、云つて賢太郎が幕の間から、彼が一目見れば解る母の書状を投げ込んで行つた。
近頃気分が勝れない、といふやうなことが長々と書いてあつた。その一節に彼は、次のやうな個所を読んだ。
「……御身は近頃著述に耽り居る由過日村山氏より聞き及び母は嬉しく安堵いたし候、酒を慎しみたるものと思ひ候、父上なき後の痛き心を風流の道に向けらるゝも亦一策ならん、務めの余暇にはひたすら文章に親しむやう祈り居り候、如何なるものを執筆せしや、母は日々徒然に暮し居り候故著書一本寄贈されたく御承知の如く震後書店の出入なければ何卒至急御送り下され度候、孰れ閲読の後は改めて母の感想を申し述ぶべく到来を待ち居り候、御身は英文学士なればその昔母の愛詠せるおるずおるすにも似たる歌もあらんなどと徒らに楽しき空想を回らせ居り候……」
母は、W. Wordsworth の古い翻訳詩の愛詠家だつた。日本では、馬琴を最も愛読した。母の実家は、昔、その父や祖父の頃から村一番の蔵書家だつた。そして、娘は母一人だつたが、二人の兄弟は並つた読書家だつた。その反対であるタキノ家や彼を、常々母は軽蔑した。彼は、いつか母からいろいろ文学に関する質問をうけて一つの返答も出来なかつた。――では、お前は一体何を主に研究してゐるんだ? と訊ねられて、彼は思はず顔を赧くした。籍を置いてゐた私立大学の文学部で、彼は英文科に属してゐることに気付いて
「英文学!」と、喉のあたりで蚊のやうに細く呟いだことがあつた。傍で聞いてゐた父が、
「へえ! お前は文学なのか? 俺ア、また理財科だとばかり思つてゐたんだ。ハツハツハ……」と笑つた。
「私は、文科の方が好いと思ふ。」
母は、きつぱりとさう云つた。
「そりやア、好きなものなら――」と、父は云つた。
彼は、たゞ楽をする目的でそれ[#「それ」に傍点]を選んでゐた。好きか? 嫌ひか? そんな区別も彼は知らなかつた。母が軽蔑した彼の父でさへ、彼よりは遥かに英文学に通じてゐたらしかつた、彼に
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