徳的な反抗を煽てる為に、済して娘に訊ねたりした。
「いゝえ。」と、娘は、白々しい残酷感を胸に秘めて、首を振つた。
「へえ!」と、老婆は、仰天するやうに眼を視張つた。そして、拙い言葉で今更のやうに女の貞操に就いて、娘を諫めたりした。そして自分が、どんなに不行跡な夫と永く暮して来たにも関はらず、貞操観念は如何に律義なものであつたか、といふ事などを附け加へた。――彼女達は、彼の母の不徳を稍ともすれば吹聴したがつた。それで、哀れな自慰を貪つてゐるらしかつた。
 彼は、この家に同居するやうになつてから自分が今迄母に対して抱いてゐた「道徳的な反抗」が、ウマク影をひそめて行く気がして寧ろ清々とした。今迄、自分がひとりで焦立ツてゐた卑俗な感情を、この家の卑俗な連中が悉く奪つて呉れた――そんな気もした。それで自分の心は、別段デカダンにも走らず、あきらめ[#「あきらめ」に傍点]といふ程の云へばエゴにも陥らず、別段改まつた人世観をつくることもなく――彼は、そんなことを思つて、気附かずにたゞ己れの愚鈍に安住しようとした。
(母上よ、安んじ給へ。)
 彼は、斯う祈つた。――彼の頭は、使用に堪へない剥げた鏡だつた。あの、昔の望遠鏡のやうに曇つてゐた。彼は、自分の頭を例へるにも、こんな道具に引き較べるより他に仕様のない己れの無智が可笑しかつた。
「でも、寂しいだらうね。」
「そんなこともないだらう……」
「さうかね、クツクツク……」
 老婆は、欠けた歯を露はにして笑つてゐた、娘と共々に。そして彼の方に向つて、話頭を転ずる為に、
「だけど、ちつたアお前だつてかせがなければ……、そんなことも考へてゐるの?」などゝ訊ねた。
「とても駄目だ。」と彼は云つた。
「嘘なのよ、お母さん。」と、傍から賢太郎が可愛らしい声で口を出した。「兄さんは、時々雑誌やなんかに童話を書いて、お金を儲けてゐるのよ。」
「ほう! 童話ツて何だい。」
「お伽噺のことよ――だから、この頃毎晩出かけて、屹度酔つて帰つて来るぢやないの! あれ、みんな自分で取るお金なのよ。」
「ほう、偉いんだね。――ぢや、ヲダハラからはいくらも貰つてゐるわけぢやないんだね、遠慮深いんだね、感心だねえ!」
「あたしなんて、病院へ行くんだつて遠慮してゐる程なのよ。」と、娘は云つた。彼女は、婦人科病院に通つてゐた。老婆は、忽ちカツとして彼を何か罵つた。
 階下
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