ナは名前も知らなかつた此の郊外に偶然引き移つてから、もう夏になつてしまつた。――下谷から移る時にはあんなに好く働いた賢太郎も、高輪を引きあげる時には、奥でハーモニカを吹奏してゐるばかりなので彼が独りで荷拵へをしなければならなかつた。彼は、彼の所謂、何らかの「人間的な刺激」幼稚な俗臭を欲する幼稚な男であつたから、寧ろ同所に引き止まることを主張したのであるが(如何《どう》して引き上げなければならなかつたかの経緯は省略するが。)返つて周子が己の家を嫌ひ始めたことも、幾つかのうちの一つの理由であつた。
 この頃の彼は、蝉の空殻のやうであつた。酒も飲めず吾家の晩酌は倦々もした。街に出掛ける元気もなく、ヲダハラを想つても、原田のことを想つても、瞬間だけで悉く嘘のやうに消えてしまつた。たゞ、この一年半ばかりの間の……と、云ふ程のこともないのであるが、己れの痴態が、時々呆然と眺める眼の前の木々の間や、直ぐその先きには海でもありさうな白昼の白い路に、ヒヨロ/\と写るばかりであつた。昔、或る国に不思議な刑罰があつた、天井も床も四方の壁も凡て凸凹な鏡で張り詰めた小さな正立方体の部屋が重刑者を投ずる牢で、其処には昼夜の別なく怖ろしく明るい一つの灯火が点じてあつた。凸凹な鏡に歪んだ己れの姿が、鏡は鏡を反映して無数に映る。この牢に投ぜられたものは大概三日目には白痴になつてしまふのである――そんな即席のお伽噺を彼は、いつか子供に聞かせて、その先はまた出たら目に、こゝに投ぜられた一人の青年が如何してこの牢を破つたか? などといふことを、「破る」あたりから厭々ながら冒険小説風に話したりしたこともあつたが、その空想の牢獄を更に細かく構想したりすることもあつた。
 或る日彼は、あの昔の錆びて使用に堪へないピストルを懐ろにして「呑気な自殺者の気分」を味ふ為めに、秘かに林間を逍遥したが、毛程もそんな気分は味はへずに、テレて勝手に赧い顔をして直ぐに引き返した。――またアメリカのFに出す手紙の文案を二日も三日も考へて、断念したり、静岡のお蝶を訪れて大遊蕩を試みようなどと思ひ、秘かにその資金の画策を回らせたり、アメリカ行の夢に耽つたり、時には小説家を装つて、家人を退け、近所に間借りを求めて、物々しく机の前に端坐して、顔を顰めたり、した。
 前の森では、夜になると梟がポーポーと鳴いた。あまり英一が騒がしく暴れると、
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