Iの余興と思つたらしかつた。その上彼は、
「そんなら今度は、狐に化されるところを演つて見よう。」などと云つて、膳の上を片づけ、それを両手でたてにさゝげ、
「狐に化されると、こんなものがほんとの鏡に見へるんだぜ、いゝかへ……」――「斯うやつて飲んでゐるこの酒が、実は馬の小便でさ。」
 彼は、片手で盃を干し「あゝ、うめえ、うめえ……コリヤ/\ツと。」――「俺が斯んなに女にもてたのは始めてだぞ。まさか夢ぢやアあるまいな。どれ/\、どんな顔をしてみるか一寸鏡を見てやらう。」
 そんなことを云ひながら彼は、気取つた顔をして凝ツと「鏡」を覗き込んだ。
「子供の前で、何です。」
 突然、母が叫んだ。
「いや、諸君。」と、彼は子供達に向つて云つた。「若し誰かゞ狐に化されたならば、だね。そいつの背中か頭を力一杯殴つてやると気がつくさうだよ、――斯《か》う。」と云つて彼は、ポカリと自分の頭を殴り、急に夢から醒めてキヨロ/\とあたりを見廻す動作を巧みに演じた。
「冗談にも程がある、第一縁儀が悪いよ、塗物に顔を写すと気狂ひになるツ!」
 母は、ぶつ/\云ひながら彼の手からお膳を取りあげてしまつたさうである。それから彼は、この失敗を取り返して更に子供達を悦ばせる為に、クロール泳ぎの型や呼吸の仕方を説明したり、兵隊の真似をしたりして、到々過激な運動の結果ゲロを吐いて椽側にのめつてしまひ――「ウー、苦しい、ウー、苦しい、死にさうだよう!」と、腸を絞つて息も絶へ/\に唸つた。
「ゲロを吐く位ひならお酒なんて飲むな、この腰抜け奴!」――「まア、何といふだらしのない格構だらう、あきれたお調子者だ。」
 母は、そんなことを云つたが、もう何と罵られようが何のうけ答へもなく、たゞスースーと云つてゐるばかりな浅猿しい悴の姿を、悲し気に視守るより他はなかつた。
 それから一同の者が、彼の手足をとつて軽々と寝床に担ぎ込んだのである。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

「あゝ、海が恋しい、海が恋しい。」
 彼は、毎日のやうにこんなことを呟きながら東京郊外の陋屋で碌々とその日その日を送つてゐた。医家に厳禁されたこと位ひは生来不摂生な彼であつたから別段に意ともしないのであるが、酒も今では殆んど飲めなくなつてゐた。――春、原田の家を逃げ出し、どうしても未だヲダハラの母の家へ帰る決心はつかずに、来《く》る二日前ま
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