いたり、途切れたり、次の文句を考へるために中途で何時までも凝ツと眼を瞑つて首をひねつたり、漸く言葉をつかまへて発音にとりかゝると、はたし合ひの場合に於ける騎士の声が臆病者の悲鳴のやうにうわずつた震へ声が出て、思はず自分で吃驚《びつく》りして、改めて重々しく唸り直したりする程のしどろもどろの態たらくに接して、見物人は、ハツハツハ! まるで、仁王門の甚太郎さんのやうだ! と囁き合つて、噴き出したといふことであつた。――仁王門の甚太郎といふのは、大変に熱心なアマチユアの義太夫フアンであつて、彼が一たびその練習に取りかゝつたとなると、自分自身が友と打ち伴れて田甫道を歩いてゐることも、また野良に出て畑を耕してゐることも何も彼も打ち忘れて、物凄い表情と身振りに酔ひ、日の暮れるのも知らぬといふほどの云はば、最も忠実なるテテツクスの下僕の一員であつた。鎮守の森の入口にある仁王門の傍らに彼の住居があるために、姓の代りに仁王門の――と称び慣らされてゐたが、あまり深く義太夫に凝り過ぎた彼の形相は、普段でも、大きく丸く凝つと眺めてゐるものゝその眼に写る物象は、この世のものではなしに、遠く無何有の花やかな影であ
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