起したのであるが、私は、微かな鼾をたてて眠つた振りをしてゐた。
「ぢや、海辺へ行つて待つてゐるよ。」
Fは、さう云つて出掛けた。
Fが来て以来、祖母と母は伊豆の温泉へ出かけてゐた。父は四五日前から事業の用事とかで、旅へ出て留守だつた。
私は、暫く振りでのうのう[#「のうのう」に傍点]と独りの朝飯を済してから、書斎に入つて端然と机の前に坐つた。東京の友達とやつてゐる文芸同人雑誌の翌月号に、小説を書く筈だつた。照子だの、Fだのを相手にして愚劣な焦躁を覚えながら、馬鹿馬鹿しい日ばかりを送つて来たことを、今更のやうに後悔した。今度こそ、真剣になつて力作を執筆するんだ、と力んで東京の友達に別れて来たのである。
「君、恋愛なら恋愛をむき[#「むき」に傍点]になつて書き給へよ。吾々の感覚のリズムは、常に張り切つてゐるんだ。微風が触れても啜り泣く、そこに生命の躍動があり、血みどろな生活も意義があるんだ。」と、藤田は云つた。彼は三人の女から次々に愛を強要されたが、彼は悪魔的で、虚無思想を奉じてゐた。凡ての女を振り棄てて、暗い独りの道を、宇宙の何物かに憑かるるやうに、首を垂れてたどつた。「A子さん、B子さん、C子さん、僕の残酷を許して下さい。」と、彼は叫び、そして何者かの力を感じて微笑した。A子は人妻だつた。B子は友達の恋人だつた。だが、宇宙には善もない、悪もない、ただ永遠の流れがあるばかりだ、と悟つて憂鬱な青春を過した――といふ主題の長篇小説を書いた男である。「その主人公の世紀末的思想!」さういふのが藤田の口癖だつた。自分の生活を如実に描いたのだと云ひながら、「その主人公は、その主人公の気分は――」などと云ふのも彼の口癖だつた。「宇宙には、善もない悪もない、ただ永遠の流れがあるばかりだ。」その言葉に軽い節をつけて、聖者のやうに重々しく呟くのである。
「国滅びて、山河在り――かね。」と、私が云ふと、彼は苦い顔をして、
「そんな旧思想ぢやないんだよ。」と云つた。
こんな薄汚い奴に、好くもそんなに多くの女が涙をこぼしたものだ――さう思つて、私は、藤田に感心した。さんざん女を欺した後に「善もない、悪もない。」と叫んで、孤独になり「ああ俺は悪魔だ、悲しき悪魔だ。」などと呟くなんて、随分虫の好い話だ――私は、そんな気もしたが、うつかりそんな感情を述べると、またどんな六ヶ敷いことを云はれて説伏させられないものでもない、と思つて遠慮した。さうは思つたものの、凝《ぢつ》と悩まし気に、深刻気に、眼を凝《こら》し口を引きしめてゐる藤田の表情を眺めてゐると、妙に圧迫されたり、また彼が偉いもののやうに思はれたりした。
私は、机に向つて架空的な思ひを凝した、藤田が云つた、「微風が触れても啜り泣く。」といふ言葉と「宇宙には善もない、悪もない。」といふ言葉とが、奇妙にチラチラと眼の前に翻つた。架空的な想像は、それで消えてしまつたのである。――この頃の生活を漫然と書き流して見るかな、照子のこと、Fのこと――それより他に心に触れてゐるものもなかつたが、それを書くことになると、主人公であるべき自分が惨め過ぎてならなかつた。
いつそ、未だ照子とFとが知り合ひにならなかつた頃、照子の前ではFのことを、Fの前では照子のことを、ああいふ[#「ああいふ」に傍点]風に仄めかしてゐたところを、更に輪をかけて、二人の女に悩まされてゐると云ふ風に書いてやらうかな、口惜しいから――などとも思つた。
照子の顔が浮び、Fの顔が浮んだ。――私は、思はず亀の子のやうに首を縮めた。なんとしても空々しかつた。
私は、この頃の生活を顧みて沁々と嘆息を洩らした。感情は悉く上滑りをしてゐる。虚飾、追従、阿諛、狡猾、因循、愚鈍、冷汗、無智、無能――それぞれ、かういふ名前のついた糸に操られて、手を動かし、脚を投げ、首を振り、眼玉を動かし、口を歪める操り人形に自らを譬へずには居られなかつた。
さういふ悪い名前の糸は切らなければならないのだ……野卑な楽隊の音に連れて、見すぼらしい人形がヒョロヒョロと舞台の真中に歩いて来た。(私は、せめてこの人形に道化の服を着せたかつた。だが私には、地におちた帽子を脚で蹴あげて頭に受ける業が出来ない。鮮かなトンボ返りを打つて見物の同情を惹《ひ》くことが出来ない――)
人形は、灰色の服を着てゐた。そして、ただフラフラと舞台の上を、あちこちと歩き回つてゐるばかりだつた。彼は、鏡の前にたつて自分の姿を写した。
「この洋服は、似合はない。」
さう呟いて、青い服と着換へた。青い服も似合はなかつた。赤、黄、紫、鳶色……皆な失敗した。そこで彼は、自暴自棄になつて上着を脱ぎ棄て、ズボンを棄て、シャツを棄てて素裸になつた。ところが、首と手首と足先だけは着物を着てゐても見ゆる個所だつたから、白く塗つてあつたが、その他のところは藁で出来てゐた。彼は、自分の浅猿しい姿に初めて気づいたやうに、茫然とした。そこで彼は、気が狂つて、無茶苦茶な舞踏を演じた。……狂気、乱酔、哄笑、それらの渦の中で踊り狂つた。――彼は、自分が操り人形の身であることを忘れてしまつた。糸が皆な切れてしまつた。ガチャリといふ音がして、板の間に倒れた時、ああ俺は人形だつたんだな――と気附いた。もう遅かつた。彼は、恨めしさうにピッカリと眼を開けた儘天井を睨んだ。……静かに幕。
私は、そんな馬鹿馬鹿しい空想に走つて、間の抜けた苦笑を洩らした。
私は、執筆は断念して藤田に手紙を書いた。
「いつか君に話した恋愛小説の計画は失敗した。自身の心が小説の中へ溶け込んで行くと、僕はその苦痛に閉口してしまふのだ。だが、やがて書くであらう。その代りとして、この間うちからドラマの計画を立て始めた。うまくまとまれば、荘厳な舞踊劇になるかも知れない。印象的なシムボリックなもののつもりだ。この頃僕の思想がリアリズムを離れてゐる、といふ標《しるし》になるであらう。」
私は、手紙を書いただけで疲れてしまつた。藤田から手紙が貰ひ放しになつてゐるので、厭々ながら書いたのだ。――手紙にすら、ほんとのことが書けないとは情けない、つまり俺の頭にも生活にも、文字に換ふべき一物もないといふ証拠なんだらう、小説なんていふものは止すべし、止すべし――私は、そんなことを思ひながら、却つて清々したやうな気持になつて、縁側に出てどつかりと大儀な体を椅子に落した。
Fと照子が砂だらけになつて帰つて来た。二人は跣足になつて、足袋や靴下の儘で、泉水を蹴つて、砂を落した。照子は、電話をかけて自家から着換への着物を取り寄せた。濡れたスカートの儘で、Fは座敷にあがり唐紙をぴつたりと閉めて、照子と二人で着換へをした。
「もの云へば唇寒く――もの書けばペンまた寒く、思ふこと更に寒し。」などと思ひながら、私は泉水に眼を放つて茫然と煙草を喫《ふか》してゐた。
「ジュンは、どうして来なかつたの?」
「行かうと思つてゐたんだが、忘れてゐた仕事を思ひ出したんだ。」
「そして、それはもう片附いたの?」
「僕の仕事はビジネスぢやないんだから、片附くも片附かないもあつたものぢやない。」
私の細く濁つた声などには頓著なしに、
「妾達は、膝の上まで浸して来た。」と、Fは照子を顧みて云つたりした。
「純ちやんの仕事ッて何さ?」
「照ちやん達と、こんな風に話しをしてゐることと反対なものが僕の仕事なんだよ。」
私は、自分でも有耶無耶ながら、さう云つて何か漠然と別のことを考へたりした。
「ジュンの仕事は、朝寝坊と夜更しだらう。」
Fは、爪を磨きながら呟いた。照子は、一寸敵意を含んだ眼つきでFの指先を眺めた。
「まア、てんでんに閑な人はバカな日ばかりを送つてゐたら好いだらうよ。――どれ、また仕事の続きに取りかからうかな。」
「今晩妾の家で、Fさんをお客にしてお茶の会をするんだが、ぢや純ちやんは来られないね。」
「大嫌ひだ。仕事がなくつたつて御免蒙る。」
私は、さう云つたが一寸羨しかつた。さういふ家の中の会合なら、また何か出たら目をやつて、彼女達の眼を牽くやうなことが出来ないわけでもない。この間の晩などは、私は調子に乗つて長持の中から虫臭い裃を取り出して、
「われわれの国の昔の風俗習慣を見せてやらう。」とFに云つて、刀を持つて立ち上つた。「危いよ。」と、照子が云ふと、私はここぞと云はんばかりに、見物を次の間にさがらせ、十畳間の真中に突ッ立つて、
「ヤア!」と叫んで、ギラリと白刃を抜き放つて見せた。そして仮想の敵を描いて、正眼の構へをした。太刀の方を用ひたかつたのだが、それは重たくてとても振り回せないので小刀を用ひた。何か芝居の真似事をして見せたかつたのだが、私は何の台詞も知らなかつたので、ただ縦横無尽に切りまくつた。長押から槍を取り降して、それをしご[#「しご」に傍点]いて見せもした。かういふ単独の業なら、私も相当巧みだつた。
「なにしろ僕は、武士の子だからね。町人風情の照子とか、毛唐人のFなどは、これが若し昔ならとうに吾輩の手打になつてゐるところだ。」
裃の肩を脱いで、一休みした時、私は、そんなことを云つて笑はせたが、ふと「まつたく昔なら……」といふ気がした。
「今夜は、仮装会をして遊びませうよ。」と、Fは照子に云つた。
「Fさんはジュンの学校服を借りて大学生になりなさいよ。妾は龍二の野球のユニフォームを借りますわ。」
多分嘘だらうと私は思つた。
二三日雨が降り続いた。私は、救はれた思ひがした。終日、机に向つて痴想に耽り続けた。夜になるとFを相手に、相変らず馬鹿馬鹿しい騒ぎをした。照子は、蓄音機の音楽でFにダンスを習つたりした。
その朝は、青く晴れた。薔薇色の陽が深々と部屋の中まで流れ込んだ。Fと私は、夏の話と、いつもの水泳の話に耽つてゐるところに照子が、
「今日は皆なが海へ行きましたよ。妾達には未だ這入れないけれど、散歩に行つて見ませんか。」さう云つてFを迎へに来た。
「お前、泳いで見ない?」とFは、私に云つたのである。
「まだ寒いよ。」
「寒いもんですか、そんなに急いで来たわけぢやないんだが、妾はこんなに汗をかいてしまつた。」と、云ひながら照子は袂からハンカチを取り出して頬のあたりをおさへた。
「この間うちからジュンの水泳の話は、充分聞いたから、今日は実際のところを見せてくれないか。」と、Fは熱心な眼を輝かせた。
「いや、未だ仕事が片附かないんだ。」
「ぢや、仕方がない。」
照子とFは、白い洋傘を並べて出かけて行つた。私は、ほッと胸を撫で降した。――だが私の胸は異様に時めいてゐた。私は、部屋の中を口笛を吹きながらグルグルと歩きまはつた。
日増しに暑くなつて来る、そして毎日海へ誘はれるんぢややりきれない――と、私は思つた。私は、水泳の出来ないことを沁々と嘆かずには居られなかつた。初めから嘘さへつかなければ、こんな苦しみもなかつたものに――さう思つて、堪らない後悔を感じた。
泉水の鯉を眺めても、可笑しいほど羨ましかつた。子供の時分、私は海に行くことを許されなかつた。その代りこの小さな泉水に盥を浮べて乗り回つた。私は、玩具の舟を沢山浮べて、自分だけは盥に乗つてガリバアの小人国巡遊になぞらへたりした。港をつくつて、貿易を始めたりした。暴風雨を起して舟を沈め、陸に這ひあがつてロビンソンクルウソオの冒険を試みもした。……海辺の行楽を知らずに過した。中学に入るやうになると、友達が海へ行くために迎ひに来たが、今更泳げないといふのも間が悪い気がして、様々な口実をつくつて断つた。たしか私は、中学二年の夏まで泉水で戯れた。
俺は目方が軽いから、今だつて若しかすると盥に乗れるかも知れないぞ――私は、真面目でさう思つた。と同時に、私は何の思慮もなくシャツ一枚になつて、跣で庭に飛び降りそつと物置から盥をさげ出した。そして泉水に浮べたのである。
盥の真中に坐つて、腰と背骨で中心をとる方法は、永年の経験で今だに巧みなものだつた。盥のふち[#「ふち」に傍点]は、殆んど水の表面とすれすれになる位まで沈んで、そし
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング