或る日の運動
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)陽《ひかり》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)1[#「1」はローマ数字1、1−13−21]
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「妾のところにも、Fさんを遊びに連れてお出でな。」
 さうしないことが自分に対して無礼だ、友達甲斐がない――といふ意味を含めて、照子は、傲慢を衒ひ、高飛車に云ひ放つた。F――を照子のところへ、連れて行くも連れて行かないも、あつたものではなかつたのだ、私にして見れば――。だが私は、自分の小賢しき「邪推」を、遊戯と心得てゐた頃だつた。愚昧な心の動きを、狡猾な昆虫に譬へて、木の葉にかくれ、陽《ひかり》を見ず、夜陰に乗じて、滑稽な笛を吹く――詩を、作つて悲し気な苦笑を洩らしてゐた頃だつた。
「…………」
 で私は、意地悪さうに返事もしないで、にやにやと笑つてゐた。照子が、そんなことさへ云はなければ、此方からそれ[#「それ」に傍点]を申し出たに違ひなかつたのだ。
「毎日何をしてゐるの?」
「どうも忙しくつてね……。何しろFは珍らしい客だからね……」と、私は惰性で心にもないことを呟いて、恬然としてゐた。
「よく、純ちやんに相手が出来るわね?」
「そりやア、もう……」
 私は、どういふわけか照子の前に出ると、ほんとのことを云はなかつた。お座なり[#「お座なり」に傍点]ではなかつた。寧ろ、苦しい遊戯だつた。
「照ちやんから遊びに来たら好いぢやないか、僕はFとなんか往来を歩くのは厭なんだよ、何しろ異人の娘だからね、往来の人に一寸でも眼を向けられちや堪らないからね。」
「さうでせうとも、スラリとした人と並んで歩くのは気が退けるといふ質の人だからね、あんたはよッ!」と云つて照子は私を嘲笑した。照子は「スラリとした人」に自らを任じてゐるのだ。
「Fは、まつたくスラリとしてゐるね。あれが若し日本人だつたにしろ僕は、気がひけるよ。まつたく僕は、Fと話をしてゐると酷く気がひけてならないよ、そして彼女は、快活で、聡明で、邪気がなくつて……」
 照子は暗に、妾と一緒に歩くのが気がひけるんだらう、妾はスラリとしてゐるし、お前はチビだから――といふ厭がらせを与へたのであることを悟つた私は、反対にFを激賞することで照子の鼻を折つてやらうと試みたのである。
「第一僕は、Fの容貌が気に入つてゐるんだ。あの青い眼玉には、爽やかな悲しみが宿つてゐる。あの鼻の形は、往々見うけるそれと違つて、冷たさを持つてゐない。楚々としてゐて、それで冷たさがないんだ。」
「少し痩せ過ぎてはゐないこと!」と、照子は云つた。照子は、丈も高くそして、私から見ると肥り過ぎてゐた。照子は鼻の話をされるのを何よりも嫌つてゐた。私は好く悪口の心意《つもり》で「照ちやんの鼻は暖か味があふれてゐるよ。」と云ふのであつた。
「痩せてゐるといふ言葉は当らないよ。伸々として、引きしまつてゐるんだ。」
 私が照子を対照にして厭がらせを試みてゐるのだといふことには気づかずに、彼女はたあいもなく私に煽動されてるかたちになつて、Fに敵対する口調を洩らし始めた。
「妾だつて、洋服を着ればそんなに肥つて見えやしないわよ。妾は、さつきもお湯に入つた時、鏡の前に立つて見ると自分の恰好に見惚れたわ、なんだか自分ぢやない気がするのよ……」と照子は、鈍い眼を一寸物思ひに走らせて、
「ああ、妾どうしても洋服を作るんだ。」と独り言つた。
「うむ。」と私は、わざと真面目な賛意を示した。かうなると、もう照子は私の敵ではなかつた。
「一体妾のスタイルは、和服よりは洋服に適してゐるんぢやないかしら?」
「まア着て見なければ解らないが、……そりやアもう大丈夫だらうな。」と私は、首をかしげて点頭いた。(また軽蔑の種が出来て、退屈が一つ忍べることだらう。貴様みたいな薄ノロが洋服を着たら、さぞかし……フッフッフ。これ程思ひあがつてゐれば、大丈夫なものだ。)私は胸のうちで、そんな悪いセセラ笑ひを浮べてゐたのである。
「ワンピイスが好いかしら? それとも?」
 照子は、私などに頓著なく楽しさうな想像に耽つてゐた。
「二通りや三通りは必要だらうね。帽子のこと、靴のこと、いろいろ愉快だね……」
「Fさんは、不断は主にどんな風なの?」
「さア?」
 私は、Fの服装に就いての記憶がなかつたことを後悔した。
「ともかく、あしたあたりFさんを紹介しておくれよ。」
「Fは、日本語は喋れないんだよ。」と、私は白々しく云つた。
「いいわよ、純ちやん程度になら妾にだつて出来るわよ。」
 照子は、如何にも自信あり気に云ひ放つたのだ。不断から彼女は、東京に居る時分、一年以上西洋人に就いて Practical English の個人教授に通つたといふことを自慢して、言葉の合間などには、往々私に解らない英単語を交へるやうな女だつた。私は、或る私立大学の英文科に籍を置いてゐたが、英語の小説すら原書では読めなかつた。
「だが――」と私は、一寸胸を衝かれて、
「いざ実際となると中々六ヶ敷いからな。」
 などと変に不平気に呟いた。Fが日本語が喋れなければ、私と交際出来る筈はなかつた。彼女は、五六年も日本に滞在してゐたから、日本会話は相当巧みなのだつた。私とFとの会話は、和語が主だつた。
「だつて好いわよ。」と、照子も不平さうに呟いた。
「だが――」と、私は更に語尾を濁らせて、相手に聞えぬ程度の小言を何か口のうちでブツブツ呟いてゐた。
 単に、かかる卑しい心の遊戯は別として、彼女達を紹介すると、私が如何に惨めな法螺ふきであつたか! といふ事実が彼女達に知れてしまはなければならなかつた。私は、Fの前では、照子といふ女が、自分の[#横組み]“Sweet Heart”[#横組み終わり]だといふ風に仄めかしてあつたのだ。そして照子には、Fのことを実際の親しさ以上に吹聴してゐるのだ。
「Fはね……」と私は云つた。「一寸僕に……気に喰はないところがあつてね……」
「何いつてんのさ。そんなことは如何だつて好いぢやないの?」
「いや……彼奴はヤンキー・ガールで気持が悪いんだ。」
 私は、突然そんなことを云つた。たつた今あれ程までに激賞したFである。すると照子は、(何も私を目安にしてFに競うたのではない、道を往く美しい人に反感を持つ程度の反感を私の言葉でそそられた後だつたので)軽く、卑しい自尊の眼を輝かしたのだ。だからほんとなら、私の失言をとがむべき筈のところを忘れて、
「やつぱりね……」と、快心の点頭きを示した。
「だから三十分も話してゐると、退屈してしまふよ。」
「さうかね……」
「髪の毛が、厭に赭かつたり、眼玉が菓子のやうに青いのも、一寸は興味があるが、よくよく眺めてゐるとなんとなく人間離れがしてゐるやうな気がしたり、此奴どんなことを思つてゐるか? なんていふ気がして、薄気味悪くなつてくるぜ。」
「純ちやんも随分幼稚だわね、ホッホッホ。」と、照子は嬉しさうに笑つた。
「そして彼等の習慣は、あまり物質的で気持が悪くなるんだ。」
「そりやア、妾は好いと思ふわ。」
 照子が、有頂天になつて気取つた非難を私に浴せた。「純ちやんなんての趣味は、野蛮でお話になりやアしないわ。」
「そりやアさうだらうが、ああいふ婦人の相手はとても辛いね。」
 私は、ほんとのことを云つてゐたのだが、都合の好いことには、照子は、私がFを僭越な意味で説明してゐるんだ――と誤解してゐた。で私も、つい嘘に花が咲いて、調子づいて、かうは云ふもののFと自分は愛し合つてゐるんだ、などと云ふ途方もない思はせ振りを示したりするのであつた。
「そこへ行くと妾なんぞは、心が拡いことよ。西洋人であらうと、純ちやんであらうと同じ心で附き合へてよ。妾は、いつそ外国人と結婚がしたいわ。」
 結婚――そんな言葉を聞いただけでも、私の胸には甘くて熱い煙りがムッと渦を巻いた。――照子は、立ちあがつて縁側の椅子に腰を降して、海を眺めた。私は、醜い焦躁を振り払つて、やつぱり海の方へ眼を投げた。そして細く詠嘆的な声で、
「波がおだやかだね。」などと云つた。
「Fさんは今日は留守なの?」
「親父達と箱根見物に行つた。」と、私は物憂気に答へた。

「お前は英文学を研究してゐるさうだが、英会話は不得意らしいね。」
 或る日Fは、そんな質問を発して私の喉を塞らせた。
「英文学を研究してゐるなんて、誰から聞いたの?」
「いつか、お前のダッディから聞いた。」
「いや僕は、日本のクラシックを主に研究してゐるんだ。」
「おお、さう。」
 決して疑り深くないFは、易々と点頭いて、秘かに私を恐縮させた。Fの、この疑り深くない「おお、さう。」では、私は、屡々辟易させられたのである。私は、初めて父からFを紹介された時のことを覚えてゐる。――彼等が一時間以上喋つてゐた間、私に関する部分だけは、きつと聞き耳をたててゐたから、三分通りの要所は辛うじて解つたのである。
「彼は、如何にしてあんなに黙つてゐるのか、何か気嫌でも悪くしてゐるんぢやないかしら?」と、Fは、私のことを私の父に訊ねたのだ。父は、遊蕩的な笑ひを浮べて、
「レディの美しさに大方圧倒されてゐるんだらう。然しあの私の倅は、交際下手をいくらか自慢にするといふ風な愉快でない性質を持つてゐるんだよ。」
 私は、父を軽ハズミなことを得意になつて云ふんだ、と観察しながら、横を向いた。Fは、膝の上の大きな赤革の化粧ケースの蓋を開けて、その中の鏡に顔を写して、のべつに頬のあたりを白粉で叩きながら、
「私は、そんな性質は知らない。」と、冷たく云つた。
「F!」と、尚も私の父は厭味な微笑を漂はせながら云つた。「彼に作法を教へてやつて呉れないか? だんだんに――」
 チェッ! ――と私は、ふてくさつた舌打ちを、胸の中に感じた。
「おお、さう。」と、Fは無頓著に点頭いて、そして直ぐに私の方を向いて、
「……You……dear……お前の町の美しい海岸を案内して呉れないか……私は日本語を研究してゐる……見物に興味を持つてゐる……青年と交際して……この街に著いた最初の印象は……」
 ……は、私に聞き取れなかつた部分である。私が、黙つてゐるのでFは父の方を振り向いて、
「彼は、英語は話せないのか。」と訊ねた。
「Practical は不得意らしい。」と父は答へた。弁護したんだな、Practical も Academical も不得意なんだぜ――と私はそつと呟いて、気おくれを感じた。
「おお、さう。この先私と交際して行つたら、彼の勉強にもなるだらう。」
「非常に、非常に――彼は、学校を卒業したらお前の国を訪問したい希望を持つてゐるさうだ。」
 私は、一層迷惑を感じて、更に苦い顔をした。父は、一寸私の堅い存在に疾しさを感じたらしく、素早く、
「何とか云へよ。」と囁いた。
 私は、眼と首を横に振つた。
 父は、軽く舌を打つて――直ぐに、また愛嬌好くFに話しかけた。――私は、うつかり素晴しく大きな欠伸をしたのである。
「お前エは、もう帰えれよ。」と、更に父は、私に囁いた。私は、ホッとして立ちあがつた。父とFは、何か私に解らないことを喋つてゐたが、うしろを向いて立ち去らうとした私の熱い耳にふつと父の一言が入つた。
「彼は、Foolish なんだよ。そして時々病ひの発作が来るんだよ。」
「おお、さう、Foolish!」
 Fの言葉は、科学者のやうに冷く澄んでゐた。そして、動くところなくはつきりと断定してゐた。
(Foolish といふ言葉に、軽蔑や嘲笑の意味が含まれてゐないんだな――こいつア、却つてどうも堪らないぞ! 患者にされてしまつたわけだな。……Foolish boy! A Foolish boy!……)
 私は、そんなことを呟きながら石のやうに愚かしく重い体を、重苦しく運んで帰つて来た。私は、祖母と母の前で父を罵倒した。
「好く帰つて来た。阿父さんのやうなお調子者の真似はする
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