な。」
七十歳の祖母は、そんなことを云つた後に仏壇に向つて、
「ナム・アミダブツ。御先祖様、何卒純一の身をお守り下さい。」と、祈つて仰々しく礼拝した。母方の祖母である。私は、F達の前で自分が因循であつたことに秘かに冷汗を覚えながら、却つて自分を潔癖者の如く吹聴して、父を罵り、祖母達の歓心を買つたのだ。――一年ばかりの間に、Fは非常に日本語が巧みになつてゐた。そして私とも交際出来るやうになつた。
「海のシイズンになつたら、お前は私の家族と一緒にK――へ行く約束だつたね。」
「ああ。」と、私は困つた返事をした。この間そんな話が出た時、私はFと行く海水浴場の花やかさに浮かされて、俺は水泳なら相当のチャンピオンだ……などと、出たら目な高言を吐いたのである。
「お前と二人だけぢや寂しいんだが、お前の友達のミス・テルコは私達と一緒に行つては呉れないだらうか?」
「行かないだらう、第一彼女の性質は因循で面白くないよ。」
私は、照子のことを蔭で、あらぬ悪態をついてやることが面白かつた。
「インジュンとは、どういふ意味なの?」
「つまり、Fと正反対の性質なんだ。そして馬鹿馬鹿しいカントリー・ガールだ。」
この間照子の前で、Fの悪評を試みたと同じやうに、あの生意気な照子のことを今日はさんざんにこきおろしてやらう――などと私は思つた。
「だつてお前は、この間友達の中で最も好きなのはミス・テルコだつて云つてゐたよ。」
「うむ――。ただテルコは僕に対して非常に柔順だから、僕はつまりペチイに思ふだけさ、愛し方だつて色々な種類があるだらうぢやないか。」
「妾のことを、妾のBがさう云つたことがある。」
Fは、軽く笑つて慎ましやかに眼を伏せた。私は、陰鬱な嫉妬を覚えた。Bといふのは、横浜に居るFと同国生れの青年で、常々親しく往来してゐるといふことを、私は屡々Fから聞されてゐた。
「B君と同伴すれば好いぢやないか。」
「Bは、オフィスの仕事を持つてゐるから日曜日だけしか遊べない。」と云つたFの眼は、私の思ひなしか、悲しさうに見えた。
庭の木々は、輝いた陽を一葉一葉の新緑に受けて、水に映つた影のやうに光つてゐた。私は、静かな庭に眼を放つてゐた。真向きにFを感ずるのが苦しかつたからである。庭木の合間からは、裏の小さな野菜畑が見えた。畑の隅の物干場には、Fの靴下が長い一本の細引に沢山掛けてあつた。そして、凝と静かな陽を浴びてゐた。私は、それらの靴下に凝と眼を注いでゐた。
「退屈だから、ミス・テルコを訪れて見ようぢやないか。」と、Fは云つた。
勿論私は、極力反対した。到頭Fの感情を害ねてしまつた程、それほど熱心に反対したのである。
私は、床の間の端に座蒲団の折つたのをあてて、そこを枕にして上向けに寝転んで、黒い天井を眺めてゐた。
Fと照子は、縁側に近い処に椅子を向ひ合はせて、切りに巧みな会話を続けてゐた。
「テルコさんと知り合ひになつてから、妾は大変幸福になりました。」
「ジュンから聞いたあなたの印象と、お目にかかつて以来の感じとはまるで別ぢやありませんか、ジュンは何といふ嘘つきでせう。」
照子は、半ば私を意識に容れて、そして私をからかふためにそんなことを喋つた。Fが私のことを自国の習慣に従つて、「ジュン」と呼び棄てにするのを、照子は真似たのである。
「お世辞がうまいでせう。」
Fは、さう云つて巧みに笑つた。勿論私は、Fと照子が知合ひになつた翌日から、二人からすつかり除け者にされてしまつたのである。彼女等は、私を軽蔑にさへ価しない者として取扱つてゐるといふ風だつた。
音楽の話、芝居の話、オペラの話、結婚の話などが主に彼女達の話材だつた。そして、そのうちの何れに就いても私は無関係で唖だつた。
彼女等に取り入る一つの手段として、何か一つ自分も相当の知識を披瀝したいものだ――私は、無暗とあせつたが、凡てが夢になるより他になかつた。
私は、静かに眼を閉ぢた。……(こんな馬鹿女達を相手にして、焦々するなんて俺も甘いものだな。――)口惜し紛れにそんな独言を浮べて見たが、少しも力が入らなかつた。却つて、甘い悲しさを煽りたてて、不快の度を強めるばかりだつた。
「ジュンは眠つてしまつた。」
ふと私の耳に、Fの声が伝つた。私は、胸でにやりとして、眠つた真似をした。
「なんとなく気の毒な気がしますね。」
「彼のダッディが、ずつと前彼のことを Foolish だつて云つたことがあります。」
「ホッホッホ。」と、照子は堪らなさうに忍び笑ひをした。
私の友達の山村と、照子の弟の一年前中学を卒業した龍二と、私と、Fと、照子と蜜柑山の方へ散歩に出かけた。
「秋になると、この辺一帯が黄色い蜜柑ですつかり覆はれてしまひますのよ。」
照子は、Fの質問に答へて、洋傘の先で眼の下の畑やら、上の丘などの青い樹を指し示したりした。
「純ちやんところの蜜柑畑はこの辺ぢやなかつたかしら。――あの花を折つたつて構はないだらうね。」
「ああ構はないとも、よそのだつて構ふものか。」
「龍ちやん、あのハチスの花をとつてお出でよ。」と、照子は弟に命じた。龍二は、懐ろからジヤックナイフを取り出して、二三本のハチスの花を切つて来た。
「Fさん、山村さんのボタンに一つさして上げなさいな。」などと照子は、噪いで云つた。山村は、赭い顔をして、細い上りの道を駆けて行つた。Fは、ポケットからのべつに菓子を撮み出してムシャムシャと頬張りながら「オレンヂのシイズンになつたら、また妾は訪れませう。その時分はジュンは居ないだらうが、あなたと、あなたの龍二が居れば充分だから。」と云ひながら龍二の肩を叩いたりした。
丘の中腹を一周して、私達は帰り路についた。私達は中学の裏から運動場へ出たのである。
「ここが皆なの出た中学なんですよ。」と照子は、Fに説明した。
「おお、ナイス、グラウンド!」
「山村さんと龍二は、このグラウンドの人気者なんですよ。」
照子は、さう云つて、運動会の時の話などをした。日曜の午後で、広い運動場には子供が二三人隅の方で遊んでゐるより他に人影はなかつた。
そこは、旧式の運動の盛んな学校だつた。卒業生の大半は、陸軍士官学校と海軍兵学校を志願した。運動場の周囲には様々な体操器具が堂々と立ち並んでゐた。――十二階段、平行棒、飛越台、木馬、棚、幅飛び、棒飛び、梁木、遊動円木、天秤台、機械体操、射撃場、名前は忘れたが、穴の上に丸太が渡してある処――その上で二人の者がそれぞれ一本の腕で争ひ穴の中へ落し合ふ場所である丸太橋――。
「ここで暫く遊んで行きませう。」と、Fが先に云ひ出した。私は、厭だと主張したが、照子は聴き入れずに、
「皆なの運動を見物しようぢやありませんか。」
と、云つて山村や龍二を促した。
「うん、やらう。」と山村は云つた。
「俺は、暫くやらないから巧くやれるかどうかね。」などと云ひながらも、龍二も賛成した。そして私達は、先づ機械体操の前に集つたのである。山村と龍二は、シャツ一枚になつた。
Fと、照子と、私は隅の芝生に腰を降して熱心な眼を視張つた。
「妾は、未だかういふ種類の運動を見たことがない。」と、Fは云つた。
「僕は、かういふ種類のミリタリスティックな気風は余り好かない、……ミリタリズムは嫌ひぢやないんだが。」
私は、そんなことを呟いてゐたがFにも照子にも聞えなかつた。
山村は、最初に逆車輪を演じた。私も、その妙技には沁々と感嘆したのだが、Fと照子が余り熱心に見物してゐるのに反感と嫉妬を覚えて、仲間の技術を監視してゐるといふ風な冷かな眼で眺めてゐた。
たくましい山村の腕に握られると、鉄棒の方が飴のやうに自由になるかのやうに見えた。そして張り切つた筋肉が、ピシ、ピシと快い音をたてて鉄棒に鳴つた。山村は、多少の恥らひを含みながらも、いつの間にか自分の技倆に恍惚として、息を衝く間も見せず鮮かに鉄棒に戯れた。天空を飛翻する鳶の如く悠々と「大車輪」の業を見せて、するりと手を離したかと見ると、砂地に近いところで伸々とした宙返りを打つた。
「おお、キレイだ。」
Fは、思はず叫んで照子と私を見た。
「どうも、まだいかん。」といふ風に山村は、得意らしく首をかしげて笑つた。山村の勇敢な、そして謙遜な姿は、男の私が眺めてさへ恍惚とした。
「龍ちやん、今度やつて御覧!」と、照子が叫んだ。――龍二は、十二階段の頂上に駆けのぼつて、倒立をした。彼は、それが得意だつた。足先をそろへていつまでも蝋燭のやうに立ち続けた。そして、ゆるやかな弾道を描いて、地上に降りた。山村は、続いて頂から、上向に寝て脚から先きに落ちる芸当をやつた。
「ジュンも何かやつて御覧な。」と、Fが云つた。私は、さつきからその言葉を聞くことばかりを怖れてゐたのだ。
「純ちやん、機械体操をやつて御覧な。」
「……」――「僕は、遊動円木が好きだ。」
「遊動円木なら、妾だつて出来るわよ、ねFさん。」
Fは、笑つて点頭いた。山村と龍二は相競うて運動を続けてゐた。――梁木渡り、幅飛び、棒飛び、……何れも悉く見物を感心させぬものはなかつた。Fも、照子も、私も手に汗を握らせられた。
二人は、汗でシャツをぬらせて私達の傍に来て休んだ。Fは、山村にいろいろ運動に関する質問をしたり、激賞したりして山村をてれ[#「てれ」に傍点]させた。
「ああ、暑い暑い――海へでも入りたいな。」と、龍二は云つた。
「今頃の海の水は、却つて暖いよ。俺この間、一遍入つて見た。」
山村は、無器用な手つきで煙草を喫《ふか》しながら呟いだ。
「もう!」と、Fは眼を丸くした。
「僕は今年の冬は、三度も泳いだ。」と、龍二は云つて「あしたあたり、験しに入つて見ようや。」など呟いた。
「ぢや妾達も海辺へ行つて見ませう、ね、テルコさん。」
照子は、点頭いて、
「妾達も入つて見ませうよ。波打ちぎはのところで、脚だけ――」と、云つた。
夏になつたら、皆なで一緒に毎日海水浴へ行かうなどといふことを話し合ひながら、私達は家へ帰つた。――その晩、私は『水泳術』の本を読みながら寝た。
翌朝、私が起きた時は、もうFの姿は見えなかつた。さつきFが、私を起しに来たのを、私は知つてゐたが、知らん振りをしてゐた。無邪気に眠つてゐる風を装うてゐたのだ。私は、前の晩Fに、自分も龍二達と同じやうに、冷い海で泳ぐと云つたりしたのである。
「龍二や山村は、達者に泳ぐことはたしかだが、漁師の泳ぎであるから見苦しい。」
私は、そんなことを云つて暗に自分は目覚しい水泳の選手であるといふことを仄めかしたのである。――そして終ひには、彼等の泳ぎ方は馬のやうだなどと露骨に罵倒した。Fは、私の云ふことを信じて、
「ぢや、サドルのある馬には乗れないといふ種類なんだね。」と、冷笑した。
「Fは、アレゴリイが巧みだね。その通りその通り、――その代り、F達が泳ぐ時のライフ・ボオトには持つて来いの代物さ、ハッハッハ……」
私は、テエブルの上に立ちあがつて飛び込みの型を示したり、眼鏡を懸けて海の底へもぐつた時の印象を話したりした。また、クロオルを行ふ時の、首の振り具合、腕の抜き具合、呼吸の仕方等を説明した。打ち寄せる大波の底を目がけて砲弾のやうに飛び込み、波向ふに進む時は、大海原を征服したやうな誇りを感ずる、などと云つてFに舌を巻かせた。
「今日の運動場では、お前は活躍しなかつたが、ぢや海辺へ行けば素晴しいヴィクタアなわけだね。」
「階段の飛び降りとか、機械体操のトンボ返りぐらひなら子供の時分は巧かつたが、あんな単調な運動には愛想が尽きてゐるのさ。」
「あした、お前も泳いで見る!」
「その年、誰が一等先に海に入つたかといふことは中学生時分には誇りになつたものだ。新年の第一の朝などは、旭の昇るのを待ち兼ねて泳いだことだ。」
「夏になつたら、いろいろ泳ぎの方法をお前から教はることが出来るね。」
朝になると、私は胸騒ぎがして不断なら容易に眼が醒めないにも拘はらず、試験の朝が思はれるやうに眼が醒めた。Fが、枕元に立つて切りに
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