て辛うじて浮んだ。――七年前までは、自由に浮んだものだ、そして私に大海原の聯想をさせたものだ、短い年月が過ぎ、盥は今では走らなくなつた。大海原の聯想も出来なかつた。七年の間に自分の頭はどれだけ成長したであらうか。妄想の重味だけが盥を動かなくさせてゐるばかりだらう……私は、そんな愚かなことを考へてセンチメンタルな哀愁に囚はれた時、ザッといふ音をたて、忽ち盥は泉水の底にとどいたのである。――私は、急にてれ[#「てれ」に傍点]臭さを覚えて縁側へ駆けあがつた。
「飛んでもないことをしてゐたことだ。若しあの最中に彼女達でも帰つて来たら、何と言ひわけをしたものだつたらう。」
 私は、酷い冷汗を覚えた。私は、シャツを脱ぎ棄て乾いた猿股をはき換へて、裸のままで日向に浴した。
「泳ぎぐらゐ三日も練習したら出来さうなものだがな!」――私は、この間うちから、かくれて読んでゐる水泳術の本を、鍵のかかつた本箱の抽斗から取り出して来て開いた。
 そして本にならつて、腕を上げたり下げたりして見た。私は、座敷に入つて、腹這ひになつた。
「一、二、三!」



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「牧野信一全集1[#「1」はローマ数字1、1−13−21]」第一書房
   1937(昭和12)年3月20日
初出:「時流」新潮社
   1925(大正14)年2月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
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