起したのであるが、私は、微かな鼾をたてて眠つた振りをしてゐた。
「ぢや、海辺へ行つて待つてゐるよ。」
 Fは、さう云つて出掛けた。
 Fが来て以来、祖母と母は伊豆の温泉へ出かけてゐた。父は四五日前から事業の用事とかで、旅へ出て留守だつた。
 私は、暫く振りでのうのう[#「のうのう」に傍点]と独りの朝飯を済してから、書斎に入つて端然と机の前に坐つた。東京の友達とやつてゐる文芸同人雑誌の翌月号に、小説を書く筈だつた。照子だの、Fだのを相手にして愚劣な焦躁を覚えながら、馬鹿馬鹿しい日ばかりを送つて来たことを、今更のやうに後悔した。今度こそ、真剣になつて力作を執筆するんだ、と力んで東京の友達に別れて来たのである。
「君、恋愛なら恋愛をむき[#「むき」に傍点]になつて書き給へよ。吾々の感覚のリズムは、常に張り切つてゐるんだ。微風が触れても啜り泣く、そこに生命の躍動があり、血みどろな生活も意義があるんだ。」と、藤田は云つた。彼は三人の女から次々に愛を強要されたが、彼は悪魔的で、虚無思想を奉じてゐた。凡ての女を振り棄てて、暗い独りの道を、宇宙の何物かに憑かるるやうに、首を垂れてたどつた。「A子さん、
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