私は、友達に見つからぬやうに夜中になつて下宿の押入れの奥から秘かにこれを取り出してポツポツと打つのが常だつた。私信の場合に斯んなものを用ひることが許されないのは知つてゐたが、当時一行の文字を書いても直ぐに感傷的になり勝ちな癖から脱れるには怪し気な英文に依るこの事務的な動作を用ひるより他に術がなかつた。でなかつたら私が、あの頃Fに出す手紙はおそらく不気味なラブ・レターになつたに違ひない。
[#横組み]“My Dear Flora, H――”[#横組み終わり]
 私は、胸のうちでこれを修飾的に和訳して胸を顫はせた。和文では恋人に送る手紙でも私にはそんな文字は使へない。極めて非事務的な思ひを込めて、事務的な習慣らしく何気なさゝうに[#横組み]“From, your's, your's”[#横組み終わり]と打ち、心細く S.M. などゝ署名した。父の場合でも私は、父上様などゝ書くのはどうも厭でならなかつた。だから矢張りこれ使つて破れた文字を連ねた。
「どんなに字や文句が拙くつたつて好いからあたり前の手紙を書いたらよからうに。ビジネスぢやあるまいし。」と、父に厭味を云はれたこともあつた。
「悪い癖
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