点]は慨然として決闘を申し込んだ。
「そんな話を俺は、いつか何かで読んだことがあるんだよ。」
「君のそんな例の引き方こそ執拗だ、面白くない。俺は、何もこの絵を、展覧会に出さうと思つてかいたんぢやあるまいし……」
「さよなら。――今度かいたらまた俺が見てやるよ。かくんなら、矢張りこれに懲りずに自画像をかけよ……」
「うむ、そのうちにまたかいて見る。」と、私は、玄関を出て行つた親しい友達の後ろ姿に呼びかけた。
「あれ以来絵筆を忘れてゐたが、久し振りでまた自画像をかいて見ようかな。」
 その友達から激励の手紙を貰つたので私は、そんなことを思ひ出して呟いだ。――「こゝで、この中にかくれて秘かにかいて見ようかしら、また山あらしになつてしまつたら誰にも見つからぬうちに破いてしまはう。それにしても今度は、も少し具合の好い鏡を買つて来なければならない、恰度顔だけが写る大きさの鏡を……その鏡を選定するのに一寸と骨が折れさうだ。」
 おや――と、私は思つた。「斯んなに晴れ渡つた好い天気だといふのに可笑しいな? 雨なのかしら?」
 屋根に、ぱらぱらと小粒の霰が鳴るやうな音を聞いて私は、首をかしげた。
 脊伸びをして外を見ると、それは落葉が屋根に散る音だつた。そんな音に気づいたのは初めてだつた。――屋根は、見るからに軽々しい亜鉛板で葺いてあつた。生々しく白い薄つぺらなトタン葺だつた。だから落葉のあたる音までが、その下に住んでゐる人の耳に雨のやうに鮮やかに聞ゆるのであつた。あたりには落葉樹が多かつた。朝夕、狭い庭は狐色の木の葉で深々と埋まつた。

 歯が素焼の陶器になるやうなザラザラを口中に覚ゆる日が次第に多くなつた。トタン葺の屋根に時たま落葉の音を聞いても(今では大概葉は散り尽して、稀にカラカラと鳴るだけだつたが、私の神経はその度に屋根に飛んだ。)そんな日の私に最も毒なあの生々しい亜鉛板がザラザラと眼の先きにちらついて私は、思はず唇を閉ぢて頤を襟に埋めた。
 私は、自画像執筆はとうにあきらめてゐた。
 テーブルの上には、玩具のやうに小さい処々に錆の出てゐる点字機が載つてゐた。これを打つのかと思ふと私は、その旧式で工合の悪い金属性の音を想像して、ひとりでに指先きで歯を撫で廻はさずには居られなかつた。――学生の頃私は東京から父やFに手紙を出さなければならない時には必ずこれを用ひてゐたのである。私は、友達に見つからぬやうに夜中になつて下宿の押入れの奥から秘かにこれを取り出してポツポツと打つのが常だつた。私信の場合に斯んなものを用ひることが許されないのは知つてゐたが、当時一行の文字を書いても直ぐに感傷的になり勝ちな癖から脱れるには怪し気な英文に依るこの事務的な動作を用ひるより他に術がなかつた。でなかつたら私が、あの頃Fに出す手紙はおそらく不気味なラブ・レターになつたに違ひない。
[#横組み]“My Dear Flora, H――”[#横組み終わり]
 私は、胸のうちでこれを修飾的に和訳して胸を顫はせた。和文では恋人に送る手紙でも私にはそんな文字は使へない。極めて非事務的な思ひを込めて、事務的な習慣らしく何気なさゝうに[#横組み]“From, your's, your's”[#横組み終わり]と打ち、心細く S.M. などゝ署名した。父の場合でも私は、父上様などゝ書くのはどうも厭でならなかつた。だから矢張りこれ使つて破れた文字を連ねた。
「どんなに字や文句が拙くつたつて好いからあたり前の手紙を書いたらよからうに。ビジネスぢやあるまいし。」と、父に厭味を云はれたこともあつた。
「悪い癖だ。――私に寄越したこの間の手紙などは二三行でローマ字で印刷してあつた。近頃の書生の間ではそんな真似が流行《はやる》のかしら……無礼な。」と、母は嘆いた。私は、心持を説明することが出来なかつた。
 その頃Fの小さな従妹であつた混血児のNが、今では大きな娘になつてゐた。Nはこの頃神戸に住んでゐる。その父から、私の父が何か仕残した用件で二三度手紙を貰つてゐるが、私には意味が解らないので返事は出せなかつた。一ト月程前に、そんな用もあり、私が英語は一つも喋舌れないことを知つてゐるので父の代りに、私とは幼時のなじみがある日本語の巧みなNが上京して私と会つたのである。
 彼女が、礼で、私に握手をした時に、何年にもそんなことに慣れない私は、非礼にも顔を赧らめたりしてしまつたのであつた。子供に出す気持で稀に暢気な手紙のやうにとりはしてゐたのだが、いつの間にか私は無邪気な筆は執れなくなり、この間も昔通りに稚拙な和文で暢気な手紙を寄来したNへの返事で、――私は、妻にかくれる程な気持さへ抱き、到頭このボロ点字機を取り出したのである。去年の冬頃私は、これで読み易い古典英詩の抜萃をつくりかけたのであるが、十枚も
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