溜らないうちに厭になつて投げ出して以来、眼も触れずに置いたものだつた。
「雨! 雨!」
隣室で妻が呟いだ。
「雨!」と、私は、吃驚りしたやうに椅子を蹴つて立ちあがつた。パラパラと屋根に鳴る音には私は気づいてゐたのである。落葉の音とばかりに思つて、歯を浮かせてゐたのであつた。
みんな葉を落しきつてゐる樹々が、曇つた空に枝を伸べてゐた。見事に、隈なく樹々の枯葉は落ちきつてゐた。
Nからは、その後何の音信にも接しなかつた。――此方の手紙があまりに乾燥無味なのに興を失ふたのかも知れない――などゝ私は、成るべく自分に都合の好いやうな、それにしても一寸寂し気な苦笑を浮べた。
また、冬らしい麗らかな日が続き始めたので私は、相変らず昼間のうちは日光室の幕の中で、この頃では主に居眠りばかりを事にしてゐた。うつかりして、陽が落ちる頃までそこにうづくまつて、急に硝子戸の寒さを覚えて飛び出すことがあつた。――「カーテン位ひではとてもこの先きこの硝子戸の冷たさを防ぐことは出来まい。あの昔の温室にだつて夜になれば莚を掛けて寒さを防いだのだ。」
「近いうちにお前の云ふ通りなカーテンを買つて来て貰はうかな。」
「風がある日には、それだけでも堪らないでせうね。」
「この辺は屹度、埃りも酷さうだ。」
「家が狭ますぎるわ。」
「鉄の大きなストーブを焚くことに仕ようかな。ヲダハラの家に、火事で一遍火は浴びたと思ふが、ずつと前に山の工場で作つた大型のストーブが、たしか今でも物置きの隅にあつたやうな気がするんだが、多少修繕をしたら使へやしないかしら……」
「だつてそんな置き所もありはしない。」
私は、既に考へてゐたやうにすらすらと説明した。「玄関に置かうと思ふんだよ、煙突をつけて。田舎らしい感じが出てゝ好くはないかな。――さうすれば、たつたこれだけの家だもの、忽ち家中が……」
「馬鹿/\しい。石油ストーブ位ひで丁度好いんぢやないの。」
「御免だ。――薪か石炭を焚くんだ。さうすれば玄関だつて一種の居間にならないこともない、二畳敷の広さはあるし――。利用するんだ。バルコンもあるし、炉辺も出来るわけだ。」
彼女は、問題にしなかつた。それよりも私がまたどんな突拍子もないことを云ひ出すかを不安に感じたらしかつた。
「玄関などの必要はない。」などゝ私は稍々無気になつて呟いでゐた。この小さな家全体が、常習を破つて山の番小屋のやうになるのも好い、あたりには出たらめに椅子を散らかしたり、寝転びたければ畳に寝転ぶし、襖や障子は一切取り脱してしまつて、カーテンだけに囲まれてゐるガラン洞にするのも反つて便利かも知れない……そんな風にでもしなければ子供までもせゝこましくなつてしまふかも知れない、俺は、あの頃山の番小屋にやられたのであるが、その時はもつと/\活気に充ちてゐた筈だ、この生活が悪いのだ。
「それ位ひなら、ほんとの田舎に越しませうよ。」
「直ぐといふわけには行かないもの。」と、私は、稍々醒めて不平さうに答へた。
翌日、陽はあたつてゐたが、風のある乾いた午後だつた。前の晩に私は、そんな馬鹿気た想ひを助長させて終ひに彼女を多少脅やかしたらしかつた。――私は、こんな日には此処の日光室に入るのは厭だつたのだが、白けた気分でその中にかくれてゐた。自画像も点字機も上の見えない棚に載つてゐた。私の心は、完全な無精に陥ちてゐた。
もう落ちる葉はないので屋根には音はしなかつたが、埃を含んだ風が其処を吹いてゐるのかと思ふと私は、また悪く歯が浮いてしまつた。そんな屋敷を戴き、薄つぺらな硝子戸に隔てられて――直ぐに取り消さずには居られないやうな痴想にのみ走つてゐる自分が、首を縮めて、たゞ徒らに歯を浮かせてカチカチと鳴してゐる姿を、私は、瞑目して想像するより他はなかつた。硝子戸は少しばかりの風にも音をたてゝ鳴り、テーブルの上には字がかける程に埃が積つてゐた。私はぼつとして、そこに、指先きで、塀の落書のやうな人の顔を、かいたりした。――ザラ、ザラ、ザラ……浮くだけ浮いたらこんな歯の病ひなんて収まるだらう――私は、指先きに力をこめて縦横にテーブルの上をこすつた。
――「また、当分夜昼を取り換へてしまはう。」
夕暮に眼醒めて、鼠色に汚れたカーテンの中で、無意に、酒に酔つてゐる方が好さゝうだ――何にもいらない、誰かに笑はれないうちに斯んなところも取り片づけてしまはう、借りてある部屋をあの儘にして置けば、あそこで昼寝も出来る。
「もう、例年の如くベン船長に賀状を出す日も近づいたが、今度は一寸とデイツクの近況も書き添えてやらなければなるまい、父に丁寧な弔状を貰ひ、その後別にデイツク(彼は、いつの頃からか私をさう称んでゐた。)の近況を知りたいといふ手紙も貰ひ放しになつてゐる。さうだFからも――(ベンさんに
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング