悪筆
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)温室《サンルーム》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)てれ[#「てれ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そろ/\
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 縁側の敷居には硝子戸がはまつてゐる。
 あたり前の家と同じく勿論これは昼間だけの要で、夜になれば外側に雨戸が引かれるのだと私は、はじめ思つてゐたのだつたが、それが、これ一枚で雨戸兼帯だつた。――夜になると、この内側には幕を降ろさなければならなかつた。
 八畳、四畳半、玄関三畳――間数はこの三間で、家の形ちは正長方形である。私は、この家の主人となつていつも八畳の何一つ装飾のない床の間の脇に坐つてゐた。この北側にも一間幅の窓があつて、此処も昼夜兼帯の硝子戸一枚だつた。だがこれは擦硝子なので、未だ幕を取りつけてはなかつたが、今では夜になると氷を背負つてゐるやうな感があつた。それに、どうも見た処が雨戸代りにはなりさうもない体裁だつた。
「こんなにまでしても体裁の方が大切なのかな。浅猿しい気がする。ボロでも安普請でも関はないが、斯んな見せかけは閉口だ。」と、私は、時々顔を蹙めて呟いだ。秋が冬に変るに従つて私は、それを頻々と繰り返すやうになつた。――冬になると私は、大概の日は歯が陶器のやうに浮いて、中でも擦硝子を見ると膚に粟が生ずるのであつた。歯質が幼時から悪く今では三分の二は義歯を入れてゐたし、いつも喫煙過度で舌がザラザラとしてゐた。冬の乾いた日が来ると私は、いつも口中に砂を含んでゐるやうな気持で、冷たく乾いたものを見ると直ぐに苛々させられた。普段それだけは手まめである髯剃りさへ、余程温かな湿り気のある日でもないと手が出なかつた。――これまでもの冬私は、そんな日には部屋を閉めきつて膚に汗を覚ゆる程盛んに湯気をたてゝ、そして吸入器の前で口をあけ通しにしてゐるやうなことが多かつた。
 春の初めに、話だけを聞いて見もせずにいきなり其処に移つて来てから、私達は今この儘此処で初めての冬を越さうとしてゐるのであつた。
「この辺のこれ位ひの貸家は、大概斯んな風ですよ。」と、妻は何の不服もないらしく云つてゐた。
「――誰が始めは考へたんだらう! つまり、便利なこんな昼夜兼帯の雨戸なんて!」
 私は、背に擦硝子を思つたゞけでゾクゾクとしながら、凝つと怺えて前の方の葉の落ちきつた痩せた木々が冬らしい白い空にくつきりと伸びてゐる姿を静かに見あげてゐた。――幸ひに毎日、風のない麗かな日が好く続いてゐたが、私の砂を口に含んでゐるやうな苛々病はもうそろ/\起りかけてゐた。これが最少し嵩じると私は、稀に散歩に出かけても瀬戸物屋の前が通り憎くなるのであつた。
 何処の家でも、もうとうに冬のカーテンを懸けてゐる。斯んなに鼠色に汚れた白い布などを引いてゐる家は一軒だつて見あたらない、これからは昼間でも寒い曇り日などには幕を掛けなければならないのだ、厚味のある重さうな何々色のカーテンをあたりに引き廻らせれば温かく落つく、硝子戸一枚だつて決して心配はいらない――と、いふやうなことを彼女は幾度も説明したが、私は自分から先きに云ひ出したのにも係はらず、と聞くと、私はあまりに乗り気にもならなかつた。そして、反つて私は彼女の提言を嘲笑ふやうな顔をしたりした。
「堪らないのは、このうしろの窓だ。」と、私は唇をもぐもぐさせながら云ふだけのことだつた。「幕の下にでも俺は、あの擦硝子を感ずると凝つとしてはゐられなくなりさうだ――何か他に好い工夫はないかな。」
 別段、反対する程の積極性もなかつたが私は、彼女がそんな重さうな何々色の布などを遥々と買ひに出かける姿を想像したゞけでも何だか憶劫だつた。
 日増しに陽が深く部屋の中まで射し込むやうになり、この頃では朝私が眼を醒す頃にはすつかり雨戸が明け拡げられて陽は、奥行の二間あまりしかない部屋を隈なく突き透してゐた。――私は、陽を逃げて、屹度、寝た時とは飛んでもない方向に頭を置いて、それでもまぶしく陽が射して、亀のやうに夜着の中にもぐり込んでゐた。これに辟易して私は、何年振りかで朝起きをするやうになつた。……いつも、春先きの砂浜で昼寝をした時のやうにフラフラと懶い空ツぽの頭で起きあがるべく余儀なくされてゐた。
「これで生活に多少の変化でも出来れば幸福だが――」
 私は、そんなことを思ふこともあつた。
 あたりには丈の高い落葉樹が多く、日毎にその葉が薄れて行くので縁側には殆ど終日陽があたつてゐた。――そこの隅に、以前食膳の代りに用ひた安物の丸テーブルが邪魔になつておし寄せてあつた。
 或る朝私は、そこに絨氈をいくつかに折つて敷き詰めた。そして硝子戸を閉め、その中程に半紙を貼
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